2014年01月09日
いのち
清水博『〈いのち〉の普遍学』を読む。
本書は,
仏教と科学の視点から「〈いのち〉を問う」ことを目的にして,竹村牧男さんと私の間で…始まった往復書簡が,本多弘之さん,竹内整一さんと,対論の相手を変えて引き継がれ
たものを中心において,第一部で,「〈いのち〉の科学」,第三部「〈いのち〉の普遍学からの構想」を配置して,
〈いのち〉の居場所としての地球の危機を考える…共通の精神が…貫いて流れている…
ものとなっている。
著者は,「はじめに」で,こう書く,
往復書簡の主題が「〈いのち〉への問い」であるように,人間が生きていくことは,「未来に向かって問いかけ」,そしてその答えを自分なりに見つけては,また「問いかけていく」ことの繰り返しであり,答えはすでに問いかけのうちに隠れているのです。
したがって生きていくために必要なことは,「正解」を探すことではなく,自分を包んでいる新しい状況に対する問いかけ方を知ることです,
と。そして,これから必要なのは,自分一人を主役として際立たせることに生きがいを求めることではなく,
皆が主役となって役割を分担しながら共に生きていく「生活共創」の時代,
だとも。それには,
多くの人びとがそれぞれの貴重な〈いのち〉を与贈し,共に主役となって,時代を越えて愛されるものごとを,ドラマの共演のように一緒につくり出していく創造的な活動です,
とも。
ところで,〈いのち〉という表現について,なぜ生命ではなく,〈いのち〉なのか。
〈いのち〉とは,それ自身を継続していくように地球の上ではたらいている能動的な活き(はたらき)のことです。
だから,
生きものをモノという面から捉えるために使われてきた「生命」という概念だけでは不十分であり,現実に不足しているコト(関係性)の面からも生きものを具体的に捉える方法が必要,
として,〈いのち〉という概念を使う,という。これは,
日本人が昔から使ってきた「命」に近いのではないか,
と。そして,〈いのち〉を語るとき,生きものが生きている居場所抜きでは語れない。
生きものの〈いのち〉とそこに生きている生きものとは,たんなる全体と部分以上の関係にあります。またそればかりではなく,生きものの〈いのち〉が存在している場所でなければ,居場所とは言いません。その意味から,居場所には居場所としての〈いのち〉があります。その〈いのち〉は,生きものの〈いのち〉を加えあわせたものではなく,居場所に広がって遍在する「全体的な〈いのち〉」です。さらに居場所から取り出した生きものの性質は,居場所にあるときの性質とは一般的に全く異なってしまいます。
この関係を,こう説明します。
居場所の部分である生きものたちの内部には,それぞれ居場所全体の〈いのち〉の活き…を映す活き「コペルニクスの鏡」(と仮称します)があり…,その「コペルニクスの鏡」に映っている全体の〈いのち〉の活きが個々の生きものの性質を内部から変える…,
として,人間の身体と約60兆個の細胞との関係で例示します。
人間の身体は…約60兆個と言われる非常に多くの多様な細胞たちの居場所です。また,それらの細胞は,それぞれの〈いのち〉をもって自律的にいきています。その身体が一つの生命体として統一された活きをもっているのは,細胞たちがそれぞれ共存在原理にしたがって共創的な活動をしているからですが,…人間の身体の〈いのち〉という全体とこれらの細胞たちの〈いのち〉という部分を,全体と部分に分離することなく,一つのものとしてつないで「生きていく複雑系」としている活きがあるから,
その統一性が生まれてくる。この全体と部分がわけられないことを,
居場所の〈いのち〉の二重性
と著者は呼びます。つまり,
その居場所の〈いのち〉の活きと,その居場所で生活している生きものの〈いのち〉の活きを機械的に全体と個に分けることは原理的にてきません。(中略)生きものの〈いのち〉が居場所の〈いのち〉に包まれると,生きもののうちにある「コペルニクスの鏡」がその居場所の〈いのち〉の活きを映し,居場所の「逆さ鏡」が生きものの〈いのち〉の活きを映して,互いに他に整合的になるように変わる〈いのち〉のつながりが居場所と生きものの間に生まれるからです,
と。それを量子力学の粒子と場になぞらえ,
粒としての〈いのち〉と場としての〈いのち〉,
あるいは,
局在的な存在の形と遍在的な存在の形,
と,その二重性を表現しています。それをサッカーを例に,こう説明しています。
場の〈いのち〉の活きであるチームの活きは,個々の粒としての〈いのち〉の活きである選手の活きを単純に足し合わせたものものではないということです。それは,居場所に場として広がった「一つに統合された活き」,すなわち一つの「全体的な〈いのち〉」の活きです。
こうして広がった場こそが,
居場所に広がった〈いのち〉の遍在的な形態,
なのだ,と。
考えてみれば,人は,さまざまな場で生きている。家庭であり,企業であり,地域社会であり,国家であり,…の中で,継続して生きていくためには,その場所が,
居場所,
にならなくてはならない。そのためには,
粒の〈いのち〉と場の〈いのち〉の活きが,互いに整合的になることが必要
なのだという。そして,
ある場所に場所的問題が存在するということは,自己の〈いのち〉をそこへ投入してみると,〈いのち〉の二重性の形をつくれないことがわかるということです。それは,その場所が自分の居場所にならないからです。したがって,自分の〈いのち〉が相互誘導合致の活きによつて〈いのち〉の二重性をつくることができたと感じることができるまで,―その場所が自分にとって居場所になったと感じることができるまで―場所の環境条件を変更したり,自分の〈いのち〉の活き方を変えたりする努力をしてみるのです。
そこに,自分のポジションと役割が見つかることで,自分がそこにいることで場そのものが動き変化していく,そういう場と自分の関係をつくっていく,ということは,一人ではできない。いじめを考えたとき,
個々の〈いのち〉と場の〈いのち〉,
だけではない,もうひとつ必要な気がする。そのヒントは,場所的世界を劇場に見立てた,「場の即興劇理論」にあるように思える。すなわち,
場としての舞台,
舞台上の役者,
見えない形で参加しいてる観客,
の三者のうち,観客ではないか,という気がしている。それを,西田幾多郎を借りて,
「どこまでも超越的なるとともにどこまでも内在的なる(存在)」としてしかとらえられない「他者」(=「絶対の他者),
であり,それは,自己の無意識の深層に存在している,と同時に,
それが自己(役者)が存在している場所的世界(劇場)を超えて自己が関係するどのようなる劇場をも大きく包む存在,
とも呼びます。それを,著者は,「観客の声なき声」とも呼ぶ。
観客を,こう説明すれば,イメージがわくはずです。
関係子(役者)は重層構造をした〈いのち〉の居場所(劇場)に存在して,そしてそれぞれの居場所で〈いのち〉のドラマを同時並行的に演じていると考えます。たとえば,一人の人間の場合,簡単に見ても,家庭と,企業と,地域社会と,日本と,アジアと,世界と,地球というように,重層的な居場所で同時に即興劇を演じるように生きています。役者がそのうちの一つの居場所における即興劇を意識しているときに,それより大きな居場所において進行している〈いのち〉のドラマの影響が即興劇の観客の活きに相当します。
役者と舞台が整合的になるのは,その居場所よりも。重層構造の上でより大きな居場所の相互誘導合致の活きから,対応して考える,ということなのだと言える。
それは,狭く限定した「島宇宙」だけで問題解決しないというふうに言いかえると,なんだかありふれてしまうか。しかし〈いのち〉は,その小さく限定した中だけで,自己完結してはいけない。またそういう視野で見ている限り土壺にはまる。
つまりより上位の視界の中で,その視野の中において見ることで,一見相互誘導合致の活きが損なわれているように見える〈いのち〉も,その活きが生き返る解決が見える,ということなのではないか。
とりあえず,そういう「問いかけ方」をすることで,その場で生きる道が見えてくる。居場所が未来からくる,とはそういうことではないか。
浄土が未来から呼びかけてくると,心から信受するところに,「正衆聚」が与えられる,そこで現生は安心して未来からのはたらきをいただく「いま」になる,という。そのことに通ずる,ような気がする。
それは,親鸞の「如来の回向」とつながり,清澤満之の「天命を安んじて,人事を尽くす」の意欲へとつながる,と思える。
参考文献;
清水博『〈いのち〉の普遍学』(春秋社)
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