僕は,ストーカーと恋は,わずかの差だと思う。
同じ土俵に乗っていると思う,
のと,
同じ土俵に乗っていると感ずる,
のと,
同じ土俵に乗っているつもり,
のとは少しずつずれる。しかし,「同じ土俵に乗っている」のと「同じ土俵に乗っているつもり」とは,ほとんど変わらない。お互いにそう思っていても,それは,別々の土俵かもしれない。一方だけがそう思って,他方は合わせているだけかもしれない。
そもそも全く接点のなかった関係で,ストーカーは起きない。起きたとしたら,妄想か病気である。
だから,なにがしか,土俵を共有した,という幻想を抱くに足る時間があったということになる。
そういう意味では,恋とストーカーとは,ベン図ふうにいうと,重なる部分がもともと大きい。
恋は仕勝ち
とも,
恋は思案の外,
ともいう。好き嫌いとか愛憎というが,
好きと嫌いは対ではなく,
愛すと憎むは対ではない,
気がしている。もちろん,好きが嫌いに転じることもある。愛が憎しみに変わることもある。だが,対ではない。好きなものは,ずっと好きなのだ。ストーカーの心理を追いかけたわけではないので,勝手な妄想だが,
ストーカーは好きという幻想から抜け出られなくなっている,
だから,相手の土俵は見えていない。自分の土俵に乗っていたはずの(と思っている)相手を,勝手に追い求めている。これだけ追いかければ,わかってくれるだろう,気持ちも変わるだろう,と勝手に思い込む。
だからストーカー規制法によって警察から事情聴取や警告を受けた瞬間,その土俵から降りた相手に気づく。気づいたおのれが愚かしく見えるか,これだけ好意を示すおのれへのこんなふるまいに対して,相手が憎く見えるか,そこで憎悪に転ずるかどうかの岐路がある(かもしれない)。
多くは,そこで断念する。というか,みじめに見える自分を,これ以上みじめにする振る舞いには耐えられない。だから,その土俵を降りる。しかし,おのれの土俵から降りなければ,というか,同じ土俵の上にあった(はずの)相手しか見えていないので,そのときのおのれの思いの丈,好意の分量だけ,相手への憎悪の分量もかさ上げされる。
もともと好きと憎しみとは,好悪という言葉があるように,隣接している。好きから嫌いには転じないが,好きから憎む(悪む)には転じやすい。
愛は,いつくしむ,めぐむ,したしむ,かわいがる,このむ,と,いわゆるlove(の反対はhate)とは微妙にずれている気がする。だから,愛憎より,好悪の方がしっくりくる。
よく,ことわざに,
恋の道には女が賢しい
とある。一般には女性の方が,冷淡と言われる。さっぱりしている,というか,踏ん切りがいい。モトカレのものは洗いざらい捨てる。しかし,未練たらしいのは,男のほうだと言われる。本当のことは人によって,そのときの心理状態によって,二人の関係性によって,違うとは思うが,女性の方が思い切りがいいと聞かされることが多い。女性のストーカーの方が圧倒的に少ないのは,そのせいかもしれない。しかし,これも,個人差があるし,彼我の関係の中で変わる。
よく聞くのは,結婚詐欺師は,女性に信じられているという。相手の土俵にうまく,おのれの好意を残す。というか,そもそも騙されたと相手は思っていないのだという。だから,相手は憎まないのだ,という。そのあたりの,詐欺師の手腕は,
いつまでも,相手の心の土俵に,自分を残りつづけさせる,
ところにあるのかもしれない。どうせ幻なら,そういう土俵の降り方がいい。
そう,ここにはコミュニケーションの基本がある気がする。思えば,こういうコミュニケーションの仕方がいいのかもしれない。
今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
#好悪
#愛憎
#土俵
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