2014年01月12日
書く
言葉を覚えるということは,ある種俯瞰する視点を手に入れたことを意味する。それは,ユンギアンが言うように,そのときから,空を飛ぶ夢を見るというのは,その象徴といってもいい。
例えば,目の前の石くれを,石という言葉で置き換えることで,多くの石のひとつに,それはなった。
しかし,そのことで,石と目の前の石とは,ギャップが生まれる。置き換えて失ったのは,自分にとってのかけがえのないニュアンスといってもいい。
表現にそんなものはいらないという考え方もあるだろうが,そぎ落としてはいけないものをそぎしか落としてしまっているかもしれないのだ。
言葉のスピードの20~30倍で,意識は流れている,といわれる。それは,言語化できるのは,意識の1/20~30ということだ。そのとき自分が考えていたこと,思っていたことの1/20~30しか拾い上げられない。その余は,落ちていく。
書くということを考えると,
ひとつは,自分の思いを言葉にしようとする,
いまひとつは,言葉が次の言葉をつなげていく,
の二面がある。もちろん,何か書きたい思いがあって書きはじめる。しかし,言語化した瞬間,言語の意味の範囲から,思考が流れ始める。その時,すでに,ずれがはじまっている。
虚実皮膜
というのは,何も虚構を作っている時だけとは限らない。
日記を書いたことのある人ならお分かりのはずだが,自分の出来事を書いているはずなのに,その出来事自体は変わらないのに,そのニュアンスが書き方によって,変わっていくことがある。それは,言葉の作用に他ならない。
もちろん嘘ではない。嘘ではないが,そのときのコトを正確に写しているのとは少しずれる。
ひとつは,言葉の持つ俯瞰性から,視点が変わる,
ということはもちろんある。しかし,言葉に感情が籠ると,それほどの感情でなかったはずなのに,感情が煽られてしまうことがある。
つまり,いまひとつは,言葉が,勝手に言葉を紡ぎ出す。
つまりは,どっちにしろ,言葉が,見える世界を変える,ということになる。このことを,虚実皮膜というのではないか。
虚実皮膜については,近松門左衛門は,
http://www.kotono8.com/2004/06/27chikamatsu.html
によると,こう言っている。
芸というものは,実と虚との皮膜(ひにく)の間にあるものだ。
なるほど,今の世では事実をよく写しているのを好むため,家老は実際の家老の身振りや口調を写すけれども,だからといって実際の大名の家老などが立役者のように顔に紅おしろいを塗ることがあるだろうか。また,実際の家老は顔を飾らないからといって,立役者がむしゃむしゃとひげの生えたまま,頭ははげたまま舞台へ出て芸をすれば,楽しいものになるだろうか。
皮膜の間というのはここにある。虚にして虚にあらず,実にして実にあらず。この間になぐさみがあるものなのだ。
と。これは,真実らしく見せるために,黒澤明が,『七人の侍』のラストシーンで,墨汁の雨を降らしたことと似ているが,どうも不遜ながら,そこに,虚実の皮膜があるのではなく,
コトを写そうとすると,
言葉であれば,すでに,丸めるほかなく,映像であれば,自然光ではなく反射板や照明を使わなくてはきちんと撮れないように,表現自体が,現実ではなくなる,ということの方が大きい。
それは,自分の想いを語っていても,その思いは,言語のレベルで,言語に連なって,語られていく。語られていくにつれて,思いの原形質の質感ともニュアンスとも,ずれていく。
そのずれの感覚がないと,描いたものだけで,すべてを判断する。
書くというのは,いわば,すべての情報がそうであるように,フレームワークの中に入れることだと言ってもいい。
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/prod0924.htm
でそのことは,触れたが,書くということの持つ,宿命といっていい。しかし,そのことに自覚的な人は少ないかもしれない。
書くということは,書いた瞬間から,現実から乖離する。しかし,書いたものからしか,視界は拓けないのも事実なのだ。
私の言語の限界が私の世界の限界を意味する,
とヴィトゲンシュタインが言ったように,書かなければ始まらないのだから。
今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
#ヴィトゲンシュタイン
#近松門左衛門
#虚実皮膜
#ユンギアン
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