2014年01月15日
芸術の脳
酒井邦嘉編『芸術を創る脳』を読む。
編者の酒井邦嘉氏については,『言語の脳科学』について,
http://blogs.dion.ne.jp/ppnet/archives/11237688.html
で触れたことがある。言語脳科学の専門家である。その著者が,本書の意図を,
ふたつの意図を込めた。それは,芸術家一人一人が持つ独自の頭脳」と「芸術を生み出す人間一般の脳機能」を明らかにすること,
と述べる。そのための手法として,各分野で活躍中の,
曽我大介(指揮者,作曲家)
羽生善治(棋士)
前田知洋(クロースアップ・マジシャン)
千住博(日本画家)
との対談という方法を取り,
芸術を創っていく過程や創造的能力の秘密
を探ろうとしている。それを,
人間が芸術を生み出す能力は,より基本的な言語能力と密接に関係していると思われる。そこで,芸術に関する興味深い問題を,私の専門である「言語脳科学」を手がかりに考えることにした,
というわけである。是非の判断は,読んでいただくほかないが, 読んでみての私的印象では,
ひとつは,言語の専門家である小説家あるいは詩人が対象にいないこと,
いまひとつは,どうしても対談の散漫さ(会話は受け手に左右される)を免れず,掘り下げは不十分であること,
二つの憾みを残す。それと,ないものねだりかもしれないが,たった一人を相手にした方がよかったという印象をぬぐえない。
ただ,「言語を芸術と置き換えても整合性が取れる」と,上記の『言語の脳科学』について,千住氏が言及していることと,「言語は人間の言語機能を基礎にする」という著者の仮説からいうと,あえて文学者を設定する必要はなかった,ということかもしれないが。
さて,対談者ごとに共通項を拾い上げていくのは,素人には手に余るので,各対談者について,ちょっと引っかかったところを取り上げて,読んでみたいと思ってもらえれば「よし」としたい。
「(間宮芳生先生から伺ったところでは)作曲中にインスピレーションが沸きだしてくる瞬間というのがあって,その瞬間はあらゆることが理路整然と素晴らしく順序立てて頭の中に湧き出してくるそれが止まらなくなって書き続けるのです。それなのに,例えば,ベートーヴェンの時代だったら,女中が「だんな様,ご飯ができましたよ!」とやってくる。そうすると集中力がプチッと途切れてしまいます。(中略)その瞬間に途切れてしまったものを,後からつなぎ合わせる必要が出てきます。そのつなぎ目がどの作品にもあるというのです。
そのとき私はよくわからなかったのですが,いざ自分が作曲をするようになったら,その意味がとてもよくわかるようになりました。そうしたら,ほとんどの曲に継ぎ目がみえてくるわけで,そこに何らかの無理が残っているのです。」(曽我大介)
これは,ある意味,意識の流れを言語化(コード化)しているまさにその瞬間のことに他ならない。言語は,意識の1/20から1/30のスピードしかない。その集中している最中に途切れると,意識の流れは,遠ざかり,消えてしまう。後からは再現不能の,瞬間の,今しかない。そのことは,拙い経験でもわかる。思っていることを言語化しようとしている時に,他に気を取られると,その思いの方が消えて行く。
「将棋でもたくさんの手が読める,よく考えて計算できるという能力はもちろん大事なのですが,もっと大切なことがあります。それは,『この手はダメだ』と瞬間的にわかることです。(中略)プロ棋士は,アマチュアの高段者より10倍も100倍もたくさんの手が読めるわけではなくて,読んでいる手の数はほとんど同じくらいでしょう。それでも,バッと見たときに選んでいる手がたぶん違う。」(羽生善治)
その能力は,目利きだが,それは理屈ではない。たぶん手続き記憶による。10歳くらいまでに「体内時計」のように体に組み込まれた,将棋のセンスのようなものらしい。だからといって英才教育が成功するとは限らない。「好き」で「面白い」「やりたい」が必要なのかもしれない。
棋士は,対戦した全体を再現できるが,それについて,羽生さんは,こう言っている。
「それは歌や音楽を覚えるのとまったく同じでしょう。最初の数小節を聞いたら,誰の歌かとか何の音楽家がわかるのと同じで,将棋も慣れてくると『あっ,この局面は矢倉の一つの展開だな』とか,「これは振り飛車の将棋だな」とわかってきますよ。
音楽でも一つ一つの音符をバラバラに覚えているわけではなく,メロディーやリズムのまとまりを聴いて認識しますね。それと同じで,ひとつひとつの駒の配置を覚えているのではなくて,駒組みのまとまった形や指し手の連続性から捉えているのです。」
これって,どこかの研修で教わった,記憶術と似ている。つながりに意味があれば,全体の時系列が一気に蘇る。
「マジックを創作するときに,…複雑怪奇なものになってしまうことがあります。でも明確な言語化できない限りは,たとえ自分がとても気に入ったものであっても,あまり良いマジックではない。(中略)第二に,私にとってマジックとは『対話(ダイアローグ)』です。マジックの台詞を考えるとき,お客さんとキャッチボールするように構成していきます。…私はこのようなスタイルを『呼吸型』と呼んでいます。」(前田知洋)
だからこそ,前田さんは,ロベール・ウーダンを引いて,「人はただ騙されたいのではなく,紳士に騙されたいと思っている」と,言う。そしてこんな逸話を紹介する。
二人の絵描きが腕を競う話です。…それぞれの絵が宮殿に持ち込まれます。一人目がキャンバスを覆う布を取ると,見事な葡萄が描かれてましたすると,窓から鳥が入って来て,その絵の葡萄をつたのです。その絵を描いた画家は意気揚々として,「どうだ,鳥の目も騙すような葡萄を描いた自分は,この国一番の絵描きだ」と言って,もう一人の絵描きに「どんな絵を描いたのか,その布を取って見せろ」と迫りました。迫れた絵描きは何もしようとしません。その絵は,なんとキャンバスを覆う布を描いたものだったのです。「動物を騙す絵描き」と「絵描きさえも騙す絵描きという発想がおもろいでしょう。
落語の「抜け雀」を思わせるエピソードだ。もちろん,前田氏は,内輪受けのあざとさを自覚したうえで,あえて紹介している。マジシャンの矜持と受け止めていい。
「芸術は,何も人がびっくりするようなことではなくて,皆が忘れてしまっていること,忘れているけれども人々が必要とすることを提案できるかどうかで真価が問われるのです。」(千住博)
それを「切り口の独創性」と呼ぶ。そこが,その人とのオリジナルなものの見方だからだ。あるいは,認知の仕方といってもいい。いわば,自分の方法を見つけるとは,ものごとへの切り込み方を見つけることだといっていい。それが,各主題ごとに様々に横展開していくことになる。だからこそ,
「実は芸術は,とても簡単なことをやっているのです。『私はこう思う。みなさん,どうですか』と問いかけているのです。」
と。だから答えではなく,「わからない」という感想もまた一つのメッセージなのだ。ということは,すべての生き方,がそこに反映する。いや反映しなくてはならない。
「私たち絵描きは,アトリエに入ったときには,もう勝負がついているのですよ。アトリエに入って,『さあ,何を描こうか』というのでは手遅れなのです。」
ジムで運動しているとき,散歩しているとき,食事しているとき,常住坐臥,すべてが準備と予習であり,すべてが,無駄ではない,
人生に無駄なし(大阿闍梨 酒井雄哉)
なのであり,
「人生そのものが製作のプロセスでもあって,毎日何を食べて,誰と話をして,どんな本を読むかということが大切なのです。」
美しい絵を描きたかったら,美しい人生を過ごせ,
ということに尽きる,と。自分の人生,生き方,が自分のリソースなのだということだ。
ところで,最後に,脳と芸術に関わるエピソードを二つ。
認知症の人と羽生さんが将棋を指したとき,盤面が理解できていた,という。そして,次の指し手をちゃんと考えていたのだ,という。
もうひとつ,認知症の人にマジックを見せたところ,健常者と変わらぬ反応を示した,という。
人間的な脳の高機能が保たれているのだ,という。僕は,ふと思い出したが,脳溢血で倒れた人が,意識しして笑うことはできなくなった。しかし,確かV.S.ラマチャンドランの本で読んだ記憶があるが,おかしい漫才のようなものを聞くと,自然に笑みがこぼれたのだ,というエピソードを。
人の脳の奥深さは,まだまだ分かっていない。失われた意識レベルの奥に,まだ知られぬ機能が生きているということらしい。
参考文献;
酒井邦嘉編『芸術を創る脳』(東京大学出版会)
今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
#酒井邦嘉
#芸術を創る脳
#曽我大介
#羽生善治
#前田知洋
#千住博
#芸術
この記事へのコメント
抜群のこの特定のHTCの欲望の携帯電話のZモバイル
Posted by iphone5s ケース ブランド at 2014年01月18日 06:44
公表時間は、2009年2月6日に14:05の時間で7life
Posted by アイフォン5 カバー at 2014年02月10日 06:56
コメントを書く
コチラをクリックしてください