士が士であることを許されるのは,

二本差し

であるということだ。一本なら,長ドスを差したヤクザ,渡世人と変わらない。士が士であるとは,脇差を指している,ということだ。それは,自分を裁く刀を持っている,という意味でなくてはならない。だから,士には切腹が許される。でなければ,士が無職渡世と変わらぬ暮らしをしているだけの無駄飯食い,寄生虫と変わらない。

戒め,

である。自戒あっての士である。

士とは,志あるものをいう。

士は以て弘毅ならざるべからず。任重くして道遠し。仁以て己れが任となす,亦重からずや。死して後已む。亦遠からずや

ならば,

約を以て失(あやま)つもりは鮮(すく)なし

と。つまりは,

日に三たび吾が身を省みる。人の為に謀りて忠ならざるか,朋友と交わりて信ならざるか,習わざりしを伝えしか,

である。何度も例示する,五省は,

一,至誠に悖る勿かりしか
一,言行に恥づる勿かりしか
一,気力に缺くる勿かりしか
一,努力に憾み勿かりしか
一,不精に亘る勿なかりしか

本来自省を促しているはずである。だから,日本を占領したアメリカ海軍の英訳文をアナポリス海軍兵学校に掲示したのだと思う。それを忘れれば,夜郎自大に過ぎない。

志士仁人は生を求めて以て仁を害することなく,身を殺して以て仁を成すことあり

自己責任とは,ある意味自戒と自制をもつ者のことだ。その意味では,有言実行とは,

言は必ず信,行は必ず果,

でなくてはならない。だから,

仁を為すは己れに由る

のである。

それゆえ,士道とは,

暴虎馮河し,死して悔いなき者,

ではない。士道の「士」とは,

子曰く,士にして居を懐うは,以て士と為すに足らず

で,貝塚茂樹氏曰く,ここで言う士は道を求める同士の意味が強い。理想の実現できる国を求めてどこへでも出かけなくてはならない。故郷にしがみついていてはいけない,と。

「士」とは,「志」のために,「私心」を捨てるもののことだと思う。とすれば,それは,腕力でも,膂力でもない。まして武力でもない。

必要なのは,心映え,

である。それは,ただおのれの胸中にある。僕の記憶では,横井小楠は,

士道とは,ここにある,

とおのれの胸を拳で叩いた。そのことである。

参考文献;
貝塚茂樹訳注『論語』(中公文庫)


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