笑い
らくごカフェで,柳家一琴師匠の落語を三席うかがってきた。
常々思うが,人は,どこで,笑うかは一様ではなく,確かにおかしいが,それほどでもないところに,反応する人もいれば,その場がどっと反応するのに,自分は,それほどでもなく,つられて,笑うということもある。
笑いというのは,その場にいると伝播する,というところがある。あくびも伝わるが,それとはちょっと違う。あくびは,その場を共有している何人かに,伝わるが,その伝わり方は,場の共有の深さに比例する。どういうか,くつろぎ感というか,安心感というか,心のほのぼの度を共有している感じである。
笑いの伝播は,笑いの漣に,渦に,波に,飲み込まれる,という感じである。場そのものが笑っているというか,笑いを促すところがある。主体は,「場」のように思う。だから,「場」が重要なのだと思う。
ある意味,その場にいる人が,落語家(この場合一琴師匠)の噺を聴きに来ている,という状態。いわば,耳になっている。
それはレディネス状態といっていい。
http://kwww3.koshigaya.bunkyo.ac.jp/wiki/index.php/%E3%83%AC%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%8D%E3%82%B9
によると,レディネスとは,
ある行動の習得に必要な条件が用意されている状態をいう。これが,特に学習のレディネスとも呼ばれる概念の定義である。 そして必要な条件としては,身体や神経系の成熟,すでに習得している知識や興味,態度などが想定されている。あることがらの習得に,学習者の身心の条件が準備されているとき,すなわち一定のレディネスが成立していれば,学習者は,その学習に興味を持ち,進んでこれを習得しようとし,学習の効果をあげることができる,
と。つまり,程度の差はあれ,落語とはどういうものかということを弁え,噺を聴くことはどういうことかが了解できている,いわば,
笑い,
を期待して,そういう構えで,その場にいる。つまり,笑う準備はできているのである。
言い方は悪いが,笑いの臨界点に達している。だから,ちょっとしたことでも笑いが起きやすい。そこで笑いに共振れすること自体が,そこにいる,その場そのものにいることの共有のように感じる。もしも,何か,自分に笑えないことがあって,場の笑いから取り残されると,なんとなくさびしく感じる,そういう場になっている,ということだ。だから,場の笑いに身をゆだねて,ひととき,おのれを解き放つ。
噺家は,
ひとりで何役も演じ,語りのほかは身振り・手振りのみで物語を進め,また扇子や手拭を使ってあらゆるものを表現する,
ことで,聴衆の想像力が物語の世界が広げていくのを支える。だから,師匠が,たとえば,ただ表情だけで,ただを捏ねる子供の反応を演じているとき,客観的にみれば,ふた色にわかれる,
子どもと一体になって口元を歪めているか,
父親と一体になって困惑した表情になっているか,
いずれも,ただ身振りと声色だけで演じられている世界の向こうに,噺家ではなく,噺家の描く噺の世界にどっぷりつかっている。にもかかわらず,それを笑うとき,
その世界と一体になっていては笑えない。その場の,
滑稽さ,
は,それを判別するもう一つの目があるから,笑える。子供の仕草を笑うには,それがおかしいと思うには,それを第三者として見る位置からでなければ,おかしいとは感じない。しかし,一方で,子どもの身振りとシンクロして口をゆがめている。
とすると,観客は,複雑な意識の動きをしていることになる。
一方で,噺家の身振りに一体化して,演じられている子どもと一体化した表情になりつつ,
他方で,その身振り手振りの滑稽さを,第三者の目(観客)の目で観る視点も持っている,
映画でも演劇でも,似たことは起きているが,落語では,噺家の語る言葉以外に,噺の世界はどこにも現前していない。つまり,それを聴く観客の人の心の中にだけ描き出されているのである。
それだけに,一方で,世界に一体化し,他方で,それを観るという意識の行きつ戻りつが,際立つ。
もちろん持っている言葉によって,人は見える世界が違いうから,同じ噺家が発した言葉でも同じ世界が見えているとは限らない。特に江戸の世話物になると,もう同じものが見えてはいない。しかし,
笑いは,同期し,
笑いの波は伝搬する。だから,面白い。
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