2014年01月26日
メタファー
ふいに,
山のあなたの空遠く
という文句が,泡のように,意識の下層から浮かび上がってきた。
どうも,ある年代以上のひとにとっては,三遊亭歌奴が新作落語『授業中(山のあな)』でネタにしてしまったために,どうも印象がお笑い色になってしまっているが,
山のあなたの空遠く
「幸」住むと人のいふ。
噫,われひとゝ尋(と)めゆきて,
涙さしぐみ,かへりきぬ。
山のあなたになほ遠く
「幸」住むと人のいふ(カール・ブッセ「やまのあなた」上田敏訳)
という詩句は,どうもセンチメンタルな響きと,なんとなく,胸に残るしこりのような重みとがある。原文ではつかみようがないので,英訳を探してみると,
Over the mountains, far to travel,
people say, Happiness dwells.
Alas, and I went in the crowd of the others,
and returned with a tear-stained face.
Over the mountains, far to travel,
people say, Happiness dwells.
こんな感じだ。上田敏の訳が出色なのが,よく分かる。
でもって思い出したのは,
巷に雨の降るごとく
われの心に涙ふる。
かくも心ににじみ入る
この悲しみは何やらん?
(ヴェルレーヌ「巷に雨の降るごとく」)
という一節だ。これは,堀口大學訳。詩のことは門外漢なので,両者のことは知らないが,松岡正剛が,「千夜千冊」で,堀口大學の「月下の一群」について,こんなことを言っているのを見つけた。
これほど一冊の翻訳書が昭和の日本人の感覚を変えるとは,堀口大學自身も想定していなかったろうとおもう。
しかし上田敏の『海潮音』が明治の文芸感覚を一新させていったように,大學の『月下の一群』は昭和の芸術感覚の全般を一新していった。たとえば,こんなふうに。
両者は,言語感覚において,時代の先端にいた,ということなのだ。それは,今も色あせていない。
たとえば,堀口大學の,
秋の日の
ヴィオロンの
ためいきの
身にしみて
ひたぶるに
うら悲し。(ポオル・ヴェルレエヌ「落葉」)
あるいは,
わたしの耳は
貝の殻
海の響きを懐かしむ
(ジャン・コクトー「わたしの耳は貝の殻」)
これは,メタファー(隠喩)の効果といっていい。
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/view26.htm
でも触れたが,隠喩は,あるものを別の“何か”の類似性で喩えて表現するものだが,直喩と異なり,媒介する「ようだ」といった指標をもたない(そこで,直喩の明喩に対して,隠喩を暗喩と呼ぶ)。したがって,対比するAとBは,直喩のように,類比されるだけではなく,対立する二項は,別の全体の関係の中に包括される,と考えられる。
この隠喩は,日本的には,「見立て」(あるいは(~として見なす)と言うことができる。こうすることで,ある意味を別の言葉で表現するという隠喩の構造は,単なる言語の意味表現の技術(レトリック)だけでなく,広くわれわれのモノを見る姿勢として,「ある現実を別の現実を通して見る見方」(ラマニシャイン)とみることができる。
それは,AとBという別々のものの中に対立を包含する別の視点をもつことと見なすことができる。これが,アナロジーをどう使うかのヒントでもある。即ち,何か別のモノ・コトをもってくることは,問題としている対象を“新たな構成”から見る視点を手に入れることになる。
とまあ,固く言えば,こうなる。しかし,これは,視点を喩えたものの側に移せば,たとえ話や逸話,童話,果ては物語へと転じていく。
喩えたことで,別のモノが,別の世界が見えてくる,というと大袈裟か。
四人の僧侶
庭園をそぞろ歩き
ときに黒い布を巻きあげる
棒のカタチ
憎しみもなしに
若い女を叩く
こうもりが叫ぶまで
一人は食事をつくる
一人は罪人を探しにゆく
一人は自瀆
一人は女に殺される(吉岡実{僧侶})
最近の詩は知らないので,記憶に残る詩を例示に。
今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
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