未来



未来は出現するものなのか,

未来は到達するものなのか,

という問いがふと出てきた。あるいは,未来は,

ひらめくものなのか,

見えてくるものなのか,

といってもいい。あるいは,

未来は,未来からやってくるものなのか,

未来は,過去からやってくるものなのか,

と言い換えてもいい。あるいは,

未来は,線形か,

未来は,非線形か,

と問い直してもいい。

普通に考えると,

過去の選択がいまを呼び寄せ,

いまの選択が未来を呼び寄せる,

と言えるはずだ。しかし,

人との出会い,

出来事との出会い,

を通して,自分の選択といえなくもないかもしれないが,それによって,ふいに,思ってもいなかった,

未来が出現する,

ということがある。その時,そう感ずることもあるし,後になって思い当ることもある。そこでは,不意に未来が,屹立したイメージだ。あるいは,不意に舞台のホリゾントが破れて,向こうに世界が開けた感じといってもいい。

しかし,普通は,横井小楠が言うように,

人は三段階あると知るべし。天は太古から今日に至るまで不易の一天である。人は天中の一小天で、我より以上の前人、我以後の後人とこの三段の人を合わせて一天の全体をなす。故に我より前人は我前生の天工を享けて我に譲れり。我これを継いで我後人に譲る。後人これを継いでそのまた後人に譲る。前生今生後生の三段あれども皆我天中の子にしてこの三人あって天帝の命を果たすものだ。孔子は堯舜を祖述し、周公などの前聖を継いで、後世のための学を開く。しかしこれを孔子のみにとどめてはならない。人と生まれては、人々皆天に事(つか)える職分である。身形は我一生の仮託、身形は変々生々してこの道は往古以来今日まで一致している,

と,過去を引き継いで,過去の偉人の肩に乗って,

はるかな未来が見えてくる,

という感じではないか。そのとき,未来は,歩一歩,ステップをたどって登っていく先に開けてくる。

しかし,その場合も,未来は,出現の機会を待っている,

と言ってもいいのかもしれない。信仰で言えば,親鸞が,絶対他力で,第十八願,

至心に,心の底から阿弥陀仏を信じて名号を称えれば,必ず浄土へ行ける,

を信じきることで,浄土から光が差す,という。これはね神人によって,未来が出現するもといっていい。

http://blogs.dion.ne.jp/ppnet/archives/11414351.html

でも触れたように,清澤満之は,これを,

天命を安んじて人事尽くす,

と言った。それを引き受ける,ことで,未来が出現する。

だから,確かに,未来は,過去の生み出すものでもあるが,しかし,同時に,自分が,

いま,何を引き受けるか,

によって,未来は,そこに道となって開く,とも言える。

清水博さんが,

場は,未来からくる,

と言われたのも,あるいは,自分の姿勢,ありようを,さしている,といっていい。

だから,言い換えなくてはならない,

未来は,出現させる,

ものだと。そのための,覚悟と,意思がいる。


今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm



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