きめつけ
きめつけも,思い込みの一種だ。こうでなくてはならない,という。それは自分だけにしてほしい。
たとえば,
人は,過去の経験がいまを決めている,
過去に蓋をしてはいけない,
自分に向き合わなくてはいけない,
自分をありのままに受け入れなくてはいけない,
自分を見つめなくてはならない,
等々というのが,僕は嫌いである。そういうことができない人間は自分を受け入れず,結果として他人を受け入れない,という。
それは過去からくるのでも,自分と向き合わないからでもなく,
いまその瞬間,
その人と向き合わない,
その人と向き合うのを避けた,
その人と向き合うのから逃げた,
等々という程度のことだ。そのことで,その人の人生が台無しになるようなことではない。その人は,そのとき,その人に向き合いたくないし,受け入れられなかった,というただそれだけのことだ。
いつもの持論として言うが,
過去がその人のいまを決めているのではない,
いまのその人のありようが,過去の見え方を決めている,
それだけのことだ。
大事なのは,いま生きている自分であり,
いま,何かから逃げているか,
いま,何かをしなければならないのに,避けているか,
いましなければならないことから,目を背けているか,
という「いま」だ。いま,
自分が生きていく上で,しなくてはならないこと,やらなければならないことを,弁えているかどうかだけのことだ。
あえて言えば,そういう立場や状況から逃げないでいることの方がもっと重要だ。向き合うなら,自分のいるその場面や状況にこそ向き合うべきだ。
過去や内省,自己分析を重視するのは,心理を齧ったものの悪い癖だ。ひとは,いちいち内省しない。そんな暇はなく,駆けずり回っている。
もし立ち止まることが必要なら,そのときが必ず来る。それが死の直前だろうが,それがどうしたというのか。ひとは,自分で選択する。自分と向き合う必要があると,気づけば,自分で向きあう。
それを向き合いなさい,
とは,他人のおせっかいだ。
僕は基本的に,過去を脱ぎ捨ててきた。その時々の人間関係も含めて,多くは脱ぎ捨ててきた。それについて,自分の性分や性格を分析しようとは思わない。所詮結果論だからだ。
ある時から,日記をやめ,すべて捨てたのも,それが理由だ。
その都度置き去りにした自分の影は,必要なら,必ず追いついてくる。
私は私に耐えない
それゆえ私を置き去りに
する
私は 私に耐えない それゆえ
瞬間へ私を置き去りにする
だが私を置きすてる
その背後で
ひっそりと面をあげる
その面を(石原吉郎「置き去り」)
追いついてきたとき向きあえばいいのではないか。
今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
#石原吉郎
#過去
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