2014年02月15日

自己



ケネス・J・ガーゲンは問う。

自分の心の状態を観察しようとしているとき,心のどの部分が観察を行い,どの部分が観察されているのか。…心をある種の鏡とみなすならば,鏡がそれ自身の像を映し出すことは,どうして可能になるのか。私たちは世界を眼で見る。とすると,何が「内なる世界を見る眼」の役をはたすのだろうか。また,その対象は何か,

と。あるいは,

心の状態を,正しく認識しているという確信は,どこから得られるのか。もしかしたら,ある心的プロセス(例えば抑圧や認知的バイアス)が,正しい自己認識を妨げているかもしれない。また,バイアスはかかっていないという確信をもっているとしても,自分が正しく「あるがままに」自分の心を見たということがどうしてわかるのだろうか,

と。たしかに,われわれは,簡単に,

自己に向き合う,

とか,

自己を直視する,

とか,

自己を大事にする,

とか,

自己を愛する,

とか,

自分らしく,

と言う。しかしそういうときの自己というのは,そんなにはっきりしたものなのか。向き合う,大事にする,直視する等々,いずれも,モノか対象物のようなイメージでとらえているように見える。自己をそうした固定した何かのように感じているのは幻想ではないのか。

幻想は,みなが,それが幻想であることを忘れている限りにおいて幻想たりうる,

とニーチェが言ったそうだが,自己というものを鏡で自分を見るように明確なイメージで抱いているとすると,ちょっと首をかしげたくなる。

キルケゴールの有名な一節が,瞬時に浮かぶ。

人間は精神である。しかし,精神とは何であるか?精神とは自己である。しかし,自己とは何であるか?自己とは,ひとつの関係,その関係それ自身に関係する関係である。あるいは,その関係に関係すること,そのことである。自己とは関係そのものではなくして,関係がそれ自身に関係するということである。

だから自己対話そのものは自己ではない。自分を是とする自分と非とする自己の関係そのものは,自己ではない。それに関係することが自己なのである。

内省とは,自己対話そのものではなく,自己対話と対話することと言い換えてもいい。

花びらを一枚ずつはがして,来る,来ない,

と言っていることが自己対話だとすると,その対話自身と対話するのが自己ということになる。,その関係性は,他者との関係性を反映していると,僕は思う。

他者との関係での相互作用への不安が,そのまま自己対話の双方になり,その双方をにらみながら,逡巡している。それはそのまま,他者との関係の反映以外ではない。

そこで自己完結している限り,自己撞着は崩せない。僕が内省に懐疑的になったのは,ここに由来する。例えば,漫画チックに言うなら,

僕(と僕の対話)を見る僕(と僕の対話)を見る僕(と僕の対話)を見る僕(と僕の対話)を見る僕(と僕の対話)を見る僕(と僕の対話)…

はどこまで続くのだろうか。

例えば,鏡の中の自分の目を見ている場合を仮定すると,

鏡の中の自分の目の中に,鏡を見る自分の目があり,その目の中に,鏡の中の自分の目があり,その中に鏡を見る自分の目があり,その目の中に,鏡の中の自分の目があり,その目の中に,鏡を見る自分の目があり,…

と続いていく。ただし物理的には何というか忘れたが,限界が来る。それと同じように,原理的には,

自分を見る自分を見る自分を見る…,

も実は,次元を超えていくように見えて,同じ自分のレベルの堂々巡りに陥る。それを破るには,他者との対話以外にはない。

ひとつの鍵は,栗岡幹英氏が言う,

〈私の世界〉は,実際にはコミュニケーションを通して他者と共有する間主観的な役割世界なのである。

他者が意味をもって,すなわち役割存在として私の世界に現れるとき,私はこの意味によって反照される。

主体は,他者との相互作用において,自己にとっての意味に応じて他者に役割を割り当て,その役割と相即的に対応する自己の役割を獲得する。つまり,相互作用は,すべて役割関係なのである。したがって,そこには,相互に関連する役割のネットワークが存在すると考えられる。そして,各々の主体は,自己を中心としたこのネットワークの連環のありようを,ひとつの図式として意識のうちに備えていると考えられる。

等々にある。

他者とのさまざまな関係を通して,さまざまな役割を照らし出し合う,そういう関係性があることで,自分に関係する関係自体が,多次元になりうるということができる。あるいは多声性と言い換えてもいい。自己との関係性の次元は,そういう他者との関係性の次元を反映するのだと思う。

まあ,ぶっちゃけて言えば,さまざまな人との関係を持つことが,自分の自己対話と対話する視点が多様性と,多視点性,多声性を持てるのではないか,という当たり前のことを言いたいだけかもしれない。

自分との対話は,さまざま別の自分との対話を誘発するものでなくてはならない。それが自分を豊かにし,自分の可能性を掘り起こす。とすれば,自分が,多様な人との関わりのなかで,多様な自分(の役割)を獲得できなければ,その自己対話は,自己同一の悪循環から抜け出せない。

参考文献;
ケネス・J・ガーゲン『あなたへの社会構成主義』(ナカニシヤ出版)
栗岡幹英『役割行為の社会学』(世界思想社)

今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm


posted by Toshi at 04:43| Comment(0) | 自己 | 更新情報をチェックする
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