2014年02月19日
いま・ここ
ここでいう,
いま・ここ
は,カウンセリングやコーチングのセッションという閉ざされた場でのそれではない。おのれが生きている,この一瞬一瞬のいまであり,ここのことだ。
心理や内面のやり取りという抽象的な疑似空間は現実ではない。ともすると,内に向いてしまって,現実が見えなくなっていないか。そういう危惧がある。
純粋の会話は成り立たない。言葉は,その人の現実を反映し,価値を反映している。
マンガチックに言うなら,例えば,国が亡びんとしている風前のともしびの中,儒者が,最期の皇帝に,皇帝としていかにあるべきか,を講じている図に近いことはないか。
その意味で,会話自体が,時代という状況の文脈に依存している。そのことを忘れれば,温室の会話になる。
では,どれだけいまここに,生きているのだろう。毎日は,何もしなくても過ぎていく。自分が何もしないからといって,世の中が何もしないのではない。実感としては,日々,世の中が,息苦しく,閉塞感が強まっているように思えてならない。
それは,ひとりひとりがバラバラに,自己責任という名のもとに,個々に閉じ込められ,個々の感性・知性で測れるだけしか世の中の流れが汲み取れなくなっているからに違いない。
人は,ひとりで自己完結して情報を受け止めてはいけない,というのが,原則だ。
だが,そう言いながら,一体誰と,どう,ざっくばらんにキャッチボールできるだろう。そういう場が,失われつつあるように思えてならない。杞憂だろうか。
いま・ここは,過去からの時代の流れを背負い,いまがあり,ここがある。いま,ここでどうするかで,未来が決まる。
その意味で,いまの一瞬一瞬に注意を払い,集中力をもって見届けているだろうか。
なんとなく,惰性に流していないだろうか。
昨日と同じように,今日が過ぎてはいかない,過ごさせてはいけない,そんな僅かな違いに着目しているだろうか。些細だからと,そんなサインを見落としてはいないだろうか。
後から振り返って,ああ,あれが通過点だという,ティッピングポイント(それを過ぎたら後戻りの効かない時点)を見落としてしまっていないだろうか。
僕はまあ,老い先短いが,しかし,だから,責任があるのではないか。
あの時,あれを見逃したために,こうなったのか,という悔いは,後からくるものに,はコントロールできない不可抗力になる。しかし,いまを生きているわれわれには,まだわずかながら,何とか出来る,かすかな希望がある。それがたとえ,わずかでも,諦めたら,終りだ。
いまの一瞬一瞬の見落としが,妥協が,怠慢が,気の緩みが,未来を歪める。未来に影を落とす。そう考えて,一瞬の,いま・ここを生きなければ,後から来る人々に,未来を託せはしない。
未来に,自分が投企する。自分(たち)にある,わずかな可能性を開き,着地させ,実現していかなくてはならない。
投企とは,
自己の存在の可能性を未来に向かって投げ企てること,
を言うらしい。常に,自分の可能性が,未来に開かれている,という意味らしい。
ならば,まだまだ,諦めてなんかいられない,
投げ出してなんかいられない,
やけになるにはまだ早い。まだ時間が終わったわけではないのだ。未来は,まだ,少なくとも,いま・ここの一瞬先にも,開いているのだから。
自分にとっても,
友人にとっても,
仲間にとっても,
われわれ日本人にとっても,
すべての一人一人が,
死ぬまで可能性の中にある,
を少しもじれば,
自分の可能性を,未来へ投げることは,自分に関わる人の可能性も,一緒に未来へ投げることになるのではないか。自分を諦めないことが,結果として,未来を諦めないことにつながる,
少なくとも,そう信じることにしたい。
いま・ここでは。
今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
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