表現については,
http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163571.html
で書いたが,
現(うつつ)を表わす
と書くか,
現(うつつ)に表わす
かで,微妙に違う。
「現を表わす」のを,仮にドキュメンタリーだとしよう。それは,現実を,自分の現実感で再構成することだ。そして,「現に表わす」のは,その現の現実感をベースに,現らしく表現して見せる,と置き換えてみると,背景にあるのは,その人の現実感覚であり,現実を捉える価値観(現実を見る窓枠)であることがわかる。その意味では,同じ人の現実感覚がベースにあるが,
現実として表現する
のと,
現実のように表現する
のの差は,ほんのわずかだと言いたいのだ。
僕は素人なので,あくまで,素人考えだが,
表現とは,
空間を現出させる,
ことだ。あるいは,世界と言い替えたほうがいいかもしれない。世界の見え方を決めるのは,窓枠だ。その窓枠を,価値と呼んでもいいし,感情と呼んでもいいし,知識と呼んでもいい。
いや,逆かもしれない。窓枠が世界を現出させる。
ものの見え方というか考え方が,世界をそのように見えさせる。ロラン・バルトの,
文学の描写はすべて一つの眺めである。あたかも記述者が描写する前に窓際に立つのは,よくみるためではなく,みるものを窓枠そのものによって作り上げるためであるようだ。
と言う「小説」を,絵に置き換えても,写真に置き換えても同じことだ。
アラン・ロブ=グリエの『嫉妬』は,語り手=夫の嫉妬の目を通した世界が徹底的に描かれていた。しかし,アラン・ロブ=グリエがそれを研ぎ澄ましたけれども,もともと表現は,そういうものなのではないか。
作家の限られた価値で見られた世界しか描けない。というか,作家の窓枠に入った世界しか,描けない。そのことを,手法的に顕在化させてみただけと見ることができる。
たとえば,神の目線だ,物語世界そのものを俯瞰しているといっても,その世界そのものが,すでに窓枠で限られているのだということを忘れているか,無自覚なだけだ。
そのことを非難の意味で言っているのではない。もともと表現そのものが,そういう主観的な営みなのだ,ということだ。
例えば,新聞によれば,
http://www.asahi.com/articles/ASG2L5HHSG2LUTIL033.html
造形作家の中垣克久さんの作品に特定秘密保護法の新聞の切り抜きや「憲法九条を守り,靖国神社参拝の愚を認め,現政権の右傾化を阻止」などと書いた紙が貼り付けてあることを東京都美術館が問題視し,自筆の紙を取り外させ,観客から苦情があれば作品自体を撤去する方針
だという。
これが日本の美術館のレベルだということだ。
それが政治的だ(仮にこれが,靖国や永遠のゼロ系ならどういう反応をしたのだろう)と,途端に,そこに現実の可否をダイレクトに接続してしまう。この学芸員だか美術館だかが,政治的に圧力をかけられているのでなければ,表現というものの基本が全く分かっていない人間であることを,自ら白状している。
作家の目で切り取られた世界でしかない表現に,(芸術としてのレベルを云々しているのではなく)こっち(学芸員だか美術館だか)の価値で是非を判断することは,自分の価値にしかあわないものしか展示しない,と言っているに等しい。
表現は,どういうカタチにしろ,作家が,現実を自分の主観で,切り取り,世界として描く。その描いたものが,観る側に不都合だろうが,そうでなかろうが,それ自体が表現の世界だ。
それを前提としたうえでしか,表現としてのレベルの是非は判断できない。
それを制約したり,削らせたりするのは,もう,表現そのものを制約している,作家への侮辱だということがわかっていない。
現実の政治動向や為政者の動向でふらついたり,ぐらついたりするのは,表現者ではなく,それを見ている側だ。そういうインパクトが,表現が主観的的世界だからこそある。それに振り回されるのなら,こういう企画をそもそもする器量と技量が,この美術館にはない,というほかない。
この程度の表現への意識では,たぶん,芸術の鑑識眼もいかがわしいといわなければならない。
今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
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