2014年02月21日

台詞


先日,柳家さん生独演会「落語版・笑の大学」をうかがってきた。

正直に言うが,僕は,『笑の大学』の三谷幸喜氏が,嫌いである。彼の無器用なところが,誠に僭越ながら,自分を見るようで好きになれない。

古くて申し訳ないが,別役実の『にしむくさむらい』の発明家のもつブラックユーモア,つかこうへいの『熱海殺人事件』の冤罪取り調べのパロディ,同じく『いつも心に太陽を』のホモセクシュアルマインドのあっけらかんとしたユーモアに比べると,生意気を承知で言わせてもらうと,はっきり言って,いまテレビでやっているどたばたの笑いに似て,薄いギャグ(あけすけに言うと,軽薄そのもの),本人がまじになるほど,引いてしまうオヤジギャグ程度に思えてならなかった。特に,僕の中では,風間杜夫,平田満のコンビの『いつも心に太陽を』は,全編,劇場全体が笑いで揺れ続けたという記憶で,僕の中では,芝居の笑いというものの原点のような作品だ。ついそれと比較してしまう。

芝居の,『笑の大学』は,中で連発される「猿股失礼!」クラスのギャグのオンパレードに,誠に失礼ながら,最後にはあくびが出た。

さん生師匠には申し訳ないが,その「笑の大学」が,どんなものになるかという,覗き見趣味で伺ったというのが正直なところだ。。

ところが,である。僕個人としては,落語版によって,

「笑の大学」

はところを得た,感じなのだ。

考えてみれば,その役割を演じている,あの検閲官と脚本家のやり取りは,大家さんとはっさんのやり取りそのものなのだ。

舞台という三次元空間の中では,会話が軽すぎたのかもしれない。

終始,検閲官向坂と脚本家椿二人が対峙して,丁々発止と,脚本のダメ出しをし,それに抵抗しつつ書き換えていく,ということの繰り返しで構成され,最後は,両者の位置ががひっくり返る,というか,検閲官が脚本家のようになっていくというのが落ちなのだが,本来の緊張感が,会話の中身とギャップがあり(そこが笑いの根拠なのだが),あくまで僕の印象だが,役者が示す対峙の姿勢(というか芝居)と台詞の軽さ(軽妙さとはちょっと違う)とのギャップがあり,どういったらいいか,通りすがりに井戸端会議を聴いているくらいの感じなのである。

やり取りの軽さは,検閲箇所をギャグで返すということで,緊張感を軽くかわしていく,そういう会話になっている。そういう意図なのだと思うが,二人の存在の対立に見合う,台詞になっていない気がしてならない。

そのせいかどうか,両者の背負っている背景が,よく見えてこない。ただ,座付の作家と検閲の担当官という,ここでの両者の会話だけが,言葉の空中戦をしている感じなのである。だから,一人の向坂と,一人の椿ではなく,座付き作家と検閲官という,しつらえられた役割が,会話を交わしているようにしか見えない。だから,言葉の空中戦という言い方をした。

そこでは,椿という人間の重みも,向坂という検閲官の人間の重みも,感じられないまま,空中の言葉だけが,丁々発止とぶつかり合うだけなのだ。そこで,喋っている,向坂というの人間も,椿という人間も,他の誰でもいい,仮にその役割に名前がついているだけという感じなのだ。だから,役割が会話している,というのである。

もうひとつ別の視点で感じたのは,ここでは出来事は,

二人の存在の対峙と

二人の会話と,

二人の会話に出てくる出来事,

しかない。とすれば,台詞ひとつひとつが,なんというか,この芝居では,もうひとつの重要なポジションというか,役割,あえて言えば,登場人物でなくてはならない。しかし,空中戦の会話は,どちらかというと,ギャグの連発のように軽い。というかあえて軽くされているのかもしれない。

その意味で,芝居という三次元空間では,交わされる台詞が,漫才師のボケと突っ込みのように軽いジャブの応酬になっていた。

しかし,というか,だからというか,これが,落語に変わると,そのジャブの応酬が生きてくる。

台詞が対抗すべき役者が存在しないことによって,台詞そのものが,蘇ってくる。

そう,落語という舞台装置に,ぴったりだと,逆に感心した。構成の難は,難として,残るにしても,逆に,「猿股失礼」的なギャグが,中空にかろやかに浮きあがってくるのがおかしい。

噺家が顔の向きだけで,演じ分ける,それにちょうど釣り合う台詞の重さだった,という気がするのだ。落語版とされた慧眼に,逆に感心する

落語というのは,噺家一人が語り出す世界に,聴き手が勝手に,心の中に世界をイメージする。舞台ではそこに存在する役者に対抗できなかった台詞が,対抗者をなくすことで,台詞世界の独立性を得て,噺家の語りに載せて,ふんわりと自在に飛び交った。

くすぐりやオヤジギャグが,不思議に,伝わってくるのは,言葉遊びというか,言葉のずらしを基本にしたジョークだからだ。だから,大笑いというより,くすり,と笑う。そういう会話になっていることが,活きている,と感じた。

あえて言うと,あれがもっと狭い寄席的な空間だと,もっと笑いが凝縮された気がする。広すぎて,少し笑いが散発に,というか受信感度にタイムラグがあるために,笑いの発信にもあっちこっちと場所を飛ぶというタイムラグがある。お互いの距離が近いと,もっと反応が凝集するという気がした。


今日のアイデア;
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posted by Toshi at 06:11| Comment(1) | 落語 | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
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Posted by ゼクシオ7 at 2014年02月21日 12:31
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