もっともらしさ


ベンジャミン・メイズというアメリカの教育者は言う。

人生の悲劇は,ゴールに到達しなかったことにあるのではない。
悲劇はゴールを持たないことにある。
理想を実現できないのは不幸ではない。
実現すべき理想がないことが不幸なのだ。

僕はへそ曲りだから,疑う。本当か。

悲劇というのは,本人が嘆いているのか,周りがそう言っているのか。
不幸というのは,本人が悲しんいるのか。周りがそう評価しているのか

悲劇というのは,何を基準に言うのか。喜劇ならいいのか,ハッピーエンドならいいのか。では,何を指してハッピーエンドというのか。

不幸というのは,何に対して言うのか。幸せとは何をいうのか,不幸と幸せを分ける基準なんてあるのか。

何をした人か知らないが,

上記の文章は続く。

星に到達できないのは恥ではない。
到達すべき星を持たないのが恥なのだ。
失敗ではなく,理想の低さが罪なのである。

人は結局自分を語っている。そう本人が,不幸と思い,悲劇と思っている,ということを語っているにすぎない。

基本的に,「~と僕は思う」という,主語(ベンジャミン・メイズ)が抜けている。こういうのを,(時枝誠記氏の言う)ゼロ記号という。僕は,ゼロ記号化された語りを基本信じない。

これについては,

http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/prod0924.htm

で,「言葉の構造と情報の構造」ということで語ったことがある。日本語が主語がないのではない。日本語が強く文脈に依存しているからにすぎない。必要としないだけだ。必要とするときに,言わなければ,信頼されないだろう。英語であっても事情は同じだ。(一般化ないし原則として語るような)意図を持った語りは,必ずゼロ記号化される。

そういうときは用心した方がいい。

僕は生来の怠け者らしく,昔,先輩から,

のんべんだらり,

としていると,結構厳しく叱責された記憶がある。なぜなのか,僕は,それを,

何となく無為に過ごす,

と受け止めて恥じたが,しかし考えたら,なぜ恥じなくてはならないのか,といまなら思う。

僕は不精ではあるが,のんべんだらりというだらしなさはないと,いまでも思っている。どちらかというと,自分では,

のほほんとしている,

という方が当たっている気がしている。のほほんは,無頓着だけれども,無為に生きているわけではない。

ゴールなどという大層なことは考えない,
まして,
理想などということを考えない。第一,ゴールは,あくまでゴールで,その先には別のゴールがある,ということは,それはゴールではなく,通過点でしかないではないか,という茶々入れないが,そう思うと,ゴールなんぞで,悲劇だの喜劇だのと言われたくはない。

人生自体には目的はないかもしれない。

生体としての人は,ただその天寿,あるいは遺伝子の持つ可能性を全うすることが目的と言えば言える。そこには,おのずと,その人生を生きる役割があるはずだ。その意味で,ゴールは,そういう役割の手段に過ぎない。そんなものの有無で,悲劇なんぞと言われてはかなわない。

理想だってそうだ,理想,どういう理想なのか,その中身は問わないにしても,理想の有無だけで,幸不幸を忖度されてはかなわない。それこそ大きなお世話というものだ。

何のための理想なのか,

こそが大事なので,理想の有無なんぞ,何の価値基準にもならない。

大体が,こういう格言だか名言だかを,人を測る物差しにされては,迷惑だ。

人は,人の数だけ尺度が違う,人は自分の人生と自分の天寿を持つ。それを,誰それの尺度なんぞで測ろうなんて,ふてえ料簡というものだ。

だから,タイプだの性格診断だのを信じない。人の数だけ人の特性があり,それをタイプに押しはめたら,かならず,そこからはみ出すものがある。それを見ない人は,たぶん,タイプの眼鏡でしか人が見られない人だ。人の個性とは,誰も,タイプからはみ出す。そのはみだしたところにこそ,その人の持つ大事な何かがある。

そういう信念のない人は,自分だけあてはめていればいいのである。人さまのことを推し量る資格のない人だ。僕はそう思っているし,僕は,そんなタイプにはまり込むほど,典型的な人間ではない(と信じたい)。

人は,人の数だけ尺度がある,そういう信念のない人間が援助職をしてはならない。


今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm



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