2014年02月24日

向き合う


柴山哲也『日本はなぜ世界で認められないのか』を読む。

答は,ここにある,と思った。

著者は冒頭で書く,

…世界企業ランクと大学ランクの低迷ぶりを比較するだけで,日本の「失われた20年」の内容がはっきり見えるようだ。
日本はもう世界に冠たる経済大国でも技術大国でもない。下手をすると衰亡するに任せた国家ということになってしまいかねない。これこそ日本人の多くが直面せざるを得ない淋しい現実だということを,深く認識すべきなのである。

未だにモノづくり大国という。世界のどこへ行っても家電製品は,棚の隅に追いやられ,シェアは微々たるものになっている。そういう現実をきちんと見るところからしか未来はない。しかし,いまやられているのは,公共事業へのじゃぶじゃぶの税金の投入であり,円安誘導による企業の業績支援であり,武器三原則を放棄しての武器輸出である。それは,裏を返すと,日本は,重厚長大の,そんな武器にしか輸出の活路はないのか,ということなのかと疑いたくなる。

どうしてこんな体たらくになったのか。

著者は,さまざまな現実に向き合わず,糊塗してきた結果だと言いたいらしいのである。

福島の原発事故(ドイツでは汚染水漏れは事故と呼ばず原発スキャンダルと呼んでいるらしい)二度被曝した日本は,安全神話にすがったというが,実はそれだけではない。

…敗戦で植民地を失ったイタリア,ドイツが脱原発が進行した最大の理由は廃棄する処理場がないことだった。

と著者が指摘するように,小泉元総理の言う最終処分場がないままでは,原発は限界が来る,という現実を,政治家も,ジャーナリズムも,国民も,見ないふりをしてきた。本来,すでに行き詰っている,にもかかわらず,再稼働,新設へと舵を切ろうとしている。

米国第三代大統領のジェファーソンは,「新聞の批判の前に立つことのできない政府は崩壊しても仕方がない」といった。

しかし,日本では,沖縄密約事件もそうだが,新聞自体が,政府の矢面に立たない(立ちかけた毎日は,週刊新潮と世論によって倒産の憂き目にあった)。まして,政府は批判など,馬の面にションベン,解釈改憲で,人を戦場へ赴かせ,人を殺し,殺されるという状況を,実現しようとしている。そして,その事実に多くの国民は,目をそらしている。

すでに,津波前に地震で原発が破損していたという情報が出始めているが,かつて東電内部で,津波と原発への影響を分析し,国際会議に英文レポートとして報告されていたと言われる。それも,東電も政府も握りつぶしてきた。

著者は言う。

日本も民主主義を標榜しているのだから,たとえ政府や東電が嘘をつき間違ったことをしていても,メディアがしっかり監視していれば,国民へのダメージは最小限度に食い止めることができる…,

と。しかし日本のメディアは,記者クラブの囲い込みを出ない。記者クラブは,戦時下の,国家総動員法に基づいて
国家統合されたときにできた戦時体制の持続だ。いわば,大本営発表をそのまま報道する,というのに近い。いま,その悪癖から脱しているとは到底言えない。

著者は,自分の体験で,米国人も,中国人も,韓国人も,

いくら金持ちになっても,過去の罪から逃げている日本人を心の底のどこかで軽蔑している,

と。たとえば,

そうしないと,広島,長崎の被爆の歴史も相手にはなかなか通じなくなる。原爆投下は自業自得ではなかったか,という反論に出会っても,沈黙せざるを得なくなることがある。

真珠湾奇襲は,アメリカ人にとって,パールハーバー・シンドロームとして,何かあると,湧き上がってくる。9.11では,「第二のパールハーバー」と,ニュースキャスターが叫んだ。ことほど左様に,

普段の米国人は日本人に対して,…敵愾心は持っていない。…しかし自動車摩擦や経済摩擦がこじれたときや日本製品がアメリカ市場を席巻して米国の労働者の雇用などにつながったりすると,,米国のパールハーバー・シンドロームは突如,再燃する。

しかしわれわれ日本人は,ほとんど奇襲やパールハーバーでの戦死者のことを思い出しもしない。ただの手違い程度だと思っている。

本当にそうか。誰も真摯にそのことを突き止めようとはしてきていない。真珠湾奇襲についてさえ,これである,他は推して知るべしだ。

本当にそれでいいのか。著者は問う。

それにしても日本はなぜ大東亜戦争を始め,なぜあのような無残な敗北を喫するに至るまで戦争をストップさせることができなかったのだろうか。その根本を問うことが,今こそ必要になってきた。
実は,日本の戦争責任は連合国による東京裁判で裁かれてはいるが,日本自身の手によって総括したことはない。このことは,日本が国際的に認められない最大の原因になっている。

と指摘する。最近ドイツでは,収容所の看守が逮捕された,というニュースが流れた。90歳を超えている。その姿勢である。かたや,日本では,A級戦犯が首相になっいる。この違いは大きい。

90年代の「失われた十年」は,二十一世紀にはいると,「失われた二十年」へと延長され,2010年代になると,「失われた三十年」が取りざたされるようになった。

しかし,政府も企業も,非正規雇用を増やし,人件費削減にただ走り,結果として,人材を枯渇させ,あらたな事業開発が鈍化し,さらなるリストラに走り…と,ただ貧困を増幅しただけだ。

海外諸国の目に対して鈍感で,海外からの批判にも耳を傾けず,自画自賛をくり返し,内部改革を拒否し続けた日本が,近隣の中国や韓国に追い抜かれるのは,当然の帰結だった。

著者の言は,耳に痛いが,今の現状を直視する王道以外,失われた何年を克服する手立てはない。しかし,いま政府がやっているのは,過去踏襲の公共事業による景気浮揚であり,お札の増刷によるデフレ脱却だ。

そうやって生き残るのは,もはや競争力のない古い体質の企業だけだ。本来体質改善すべきこの機に,先延ばさせているだけだ。企業の自己革新と体質改善を促すには,今のように,企業を甘やかす円安政策は,逆効果でしかない。

結局,明治維新以来,一度も自主的に自己変革したことのない体質は,今回もまた続くのではないか。しかし,それは,国の衰亡しか意味しない。


参考文献;
柴山哲也『日本はなぜ世界で認められないのか』(平凡社新書)


今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm

posted by Toshi at 05:08| Comment(0) | 書評 | 更新情報をチェックする
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