考えるというのは,自分で答えを出すことだ。自分だけの答えを出す。もちろん一人の頭で考えることだけを意味しないが,主体になって,答えを出そうとする。それが考えることだ,と僕は思う。
それは,問いから始まり,答えに至る。
如之何(いかん),如之何と曰わざる者は,吾如之何ともする未(な)きのみ。
と孔子の言う通,問答(自己問答だけではないが)が考えるの原点かと思う。
社会構成主義的に言うと,それは,関係性の反映,つまり,僕が人との関係の中で培ってきたものになるだろうが,個人的には,正解がどこかにあるかどうかは別に,場合によっては,現実に最適性あるいは妥当性を求め,場合によっては,自分にとって最も理にかなうことを,場合によっては,ぎりぎりの我慢できる限界を,それぞれ自分なりに求めていくプロセス,というふうに言えると思う。
時実利彦氏は,考えるとは,
受けとめた情報に対して,反射的・紋切り型に反応する,いわゆる短絡反応的な精神活動ではない。設定した問題の解決,たてた目標の実現や達成のために,過去のいろいろな経験や現在えた知識をいろいろ組みあわせながら,新しい心の内容にまとめあげてゆく精神活動である。すなわち,思いをめぐらし(連想,想像,推理),考え(思考,工夫),そして決断する(判断)ということである(『人間であること』)
と定義している。辞書的に言うと,
1知識や経験などに基づいて,筋道を立てて頭を働かせる。たとえば,判断する。結論を導き出す。予測する。予想する。想像する。意図する。決意する。
2 関係する事柄や事情について,あれこれと思いをめぐらす。
3 工夫する。工夫してつくり出す。
4 問いただして事実を明らかにする。取り調べて罰する。
5 占う。占いの結果を判断・解釈する。
となる。「考」という字の持つ意味は,
考える
調べる
試みる
永らえる
叩く
問う
正す
比べ測る,
究める
し遂げる
となるから,ほぼその範囲に入る。そういうプロセスを積み重ねることで,自分にとっての知識やノウハウになっていく。
野中郁次郎氏が,知識とは,
思いの客観化プロセス,
と言われたのが,僕には,ひどく気に入っている。「思い」を,「問い」と置き換えてもいい。なんなら,問題意識と置き換えれば,もっともらしくなる。そうやって自ら問い,その答えを考えた結果が,おのれの知識になっていく。
人間が考えるという,この思考活動の内面プロセス自体を明らかにしたのは,スイスの心理学者J.ピアジェであるが,
たとえば3,4歳の子供が遊んでいると,誰に話しかけるというのでもなく独り言をしゃべっている。
4歳女の子「この木にはね,おサルが上るのよ。おサルさんかわいいね,すうっと登ってすうっとおりるのよ」
4歳男の子「ハイウェーだぞ。メルセデスベンツが走るんだぞ,大きいんだぞ」
お互いに誰かと話し合っているわけでないし,人に聞かれているというつもりもない。ただ自分で自分が考えていることをどんどんことばにして,それを刺激にしてまたしゃべっている。これをピアジェは自己中心的言語と名付けた。
これは,思考プロセスそのものが外面化しているとみることができる。成長につれて,通常は独り言は少なくなって,
独り言が次第に聞き取れなくなっていく。それは,自分のためにしゃべっているのであって,別に文脈が整っている必要がないからであり,自分の内的会話と人とのコミュニケーション(社会的会話)とが分離していくということでもある。こうして言語が内面化されていく。すっかり内面化された言語を内語という。
これが考えるという内面的プロセスなら,考えるとは,自己対話と言い換えてもいい。
成人でも,非常に集中したとき,無意識でものを考えながら独り言をいって,自分で思考を方向づけたり,自分を励ましたりしいることがある。そして実はそれは言語だけでなく,たとえばそろばんが上手になると,そろばんをはじく仕草をしたり,頭にイメージを浮かべて暗算したりするように,動作や映像もまた内面化される。
こうした内面化した思考プロセスには,
①動作,行為およびそれらの内面化した過程
②知覚,経験およびその内面化したイメージ
③言語およびその内面化した象徴過程
④現実の因果関係の内面化した法則的論理
の4つがあるとされているが,これは成長のプロセスであると同時に,成人においては層をなしているとみなすことができる。だから,モノを考えるとき,われわれは,以上の4つのパターンを組み合わせているということができる。
動作,行為の感覚で考える,というのは,動作や行為の経験が内面化されている。いわば,動作や行為との対話と言い換えてもいい。必ずしも,自分のそれとは限らず,人の,プロのそれと対話するということもありうる。
動作を想像するとき,思わず躯を動かすということがあるのも,そのためである。ゴルフのスイングを想定するとき,肱の恰好や腰の据わり方を,思わず躯を動かしながら,あれこれ考えている。これは,自分の躯の動きが頭の中にしまわれている(内面化されている)というふうに考えられると同時に,しかし自分が頭で考えるほどに躯は動いてはくれないという事態も生ずる。
イメージで考えるというのは,知覚・経験の内面化したイメージがあり,これも,自分の記憶との対話だけではなく,見た映像や写真というものとの対話も含まれる。それで内側を見たり,裏面を想像したりする。それは映像化された知覚経験の蓄積といったもの,いわばビジュアルなものとのつきあわせである。こうした映像的な思考,あるいはパターン化した思考は,直観につながっているように思う。
言葉で考えるというのは,言葉,つまり意味や文脈で物事を考えたり,判断したりする。成人のわれわれはほとんど言葉,あるいは概念でモノを考えているといっていい。「知っている」というとき,大体「その意味を知っている」といわれるが,もっている言葉で現実を見る眼が変わる。違った意味に見える,ということである。同時に,ソシュールの言うように,言葉は(現実とは関わりなく,あるいは切れても)言葉だけとリンクしながら,そのつながりの流れ自体で意味を創り出すことがある。
理屈・論理で考えるというのは,現実を因果関係や法則で判断する。学んだ知識・経験によって,ものごとを推理したり,類推したり,演繹したりする(こうすれば,こうなる。こういうときは,こうなるはずだ)。これが知識の力といっていい。こうなるのが当たり前,というわけだ。ロジカル・シンキングのロジックツリーがどれだけ整合性があり,論理の筋が整っていても,現実にマッチしないことがあるように,言葉以上に,論理のみの筋道だけで,ロジックが出来上がっていく。
こういう思考のプロセスを積み重ねて,ものを考える枠組が形成される。それには,次の四つがある,とされる。
①自分はどういうときにどうするタイプの人間かという自己(の可能性,傾向の)についての自画像
②ある状況ではこういうことがおき,こういうふうになるであろうという,行動や出来事の連鎖についての経験知
③かくかくの状況・立場ではこういう役割や行動が期待されているという状況への認知イメージ
④人間はこういう性格と傾向があるといった経験知
⑤こうなればこうなるだろう,あるいはこうなればこういう結果になるだろうといった,因果関係の図式の認知
つまり,モノを考えるということは,こういう自分なりの思考の枠組みができているということにほかならない。これによって,その人なりのモノの見え方,見えるものが決まってくる。
しかしである。それは,
こうした思考の枠組が,
世界を安定し,扱いやすいものにし,
私たちに突然襲いがちな予想外の出来事の数を減らし,
生活に生ずる目新しい出来事を飼い慣らし,
新しいものを既知のものに結びつけようとする
ということにほかならない。そうなれば,通常よく知っているタイプの目印となる特徴に注目し,頭の中にいつも持っているステレオタイプによって残りを満たす。それは考えるとは言わない。
自己完結した思考回路は,堂々巡りをするか都合のいい解釈しかしなくなる。それを夜郎自大という。
例えば,フィリップ・ゴールドバーグ『直感術』におもしろい小話が出ている。
ある心理学者は,ノミに「跳べ」といったら跳べるように訓練した。
試みにノミの足を1本取ってみたが,まだノミは命令に従って跳べた。
2本とっても,3本取っても命令に従って,跳びつづけた。
やがて全部の足をとってしまったら,ノミは跳ばなくなった。
そこで,この学者は,次の結論を出した。
「足を全て失ったノミは聴覚をなくす」
ここに考えるということの自己完結さ,というか自己閉鎖した思考の滑稽さがあらわになっている。
僕は考えるというのは,独り言が出発点であったように,自己対話なのだと思う。しかし,本来,自己対話は,その人が生きている現実という文脈の上で成り立っている。ということは,自己完結した,閉鎖的な自己対話はほとんど病気である。生きているということは,人が現実と関わり,人と関わり,情報と関わり,メディアと関わり等々,その都度,さまざまなレベルで対話しつづけているということである。その対話があるからこそ,自己対話を豊かにする。
ミハイル・バフチンは,こんなことを言っている。
人びとは対話を通して,意味の中に生まれてくる
と,つまり,会話は,先行する発話によって意味の中に産み落とされる,それは二人の関係のなかでの会話で決まる。
言葉の意味は,新しい(関係という)コンテクストの中におかれるたびに微妙に変化し新しい言葉がつくり出される。
だから,考えるということは,生きるということが,現実との,人との,情報との,メディアとの,他国との対話である限り,その対話というか,その関係性を反映する限り,自己対話の対話相手(視点と呼び換えてもいい)は増え続け,多様化し,多声化して,成長し続けるはずである。しかし,自己完結した閉鎖的な自己対話は,妄想か空想に陥るしかない。
参考文献;
時実利彦『人間であること』(岩波新書)
相良守次編『学習と思考』(大日本図書)
フィリップ・ゴールドバーグ『直感術』(工作舎)
J.キャンベル『柔らかい頭』(青土社)
今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
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