池上裕子『織田信長』を読む。
戦国大名の研究家である著者の「信長」伝である。いわば,最新の信長研究の成果といっていい。
著者は,先ず,
「信長許すまじ」と,平成のいまも眉をつりあげ,言葉を激する人びとが少なくなかった。(中略)北陸,東海,近畿,中国地方など,殊にその傾向がつよかったように思う。
瀬戸内の島々の人びとのなかには,信長勢と戦う一向衆の応援に水軍としてはせ参じた船の民の末裔があちこちにいて,ご先祖の船乗りたちがいかに水上戦で信長軍をほんろうしたかを,きのうのことのように唾をとばして語ってくれる人たちがいた…。
と,五木寛之が新聞に寄せた文を引用し,こう言う。
私はこの文章に深く共鳴し安堵の思いをもった。近年は,平和が勝者=権力者も含めて多数の希求していた絶対的な価値であるようにみなして,平和のために統一をめざし実現したから民衆に支持されたという権力象を描く立場もある。そうなると,信長や統一政権に抵抗した人々の立つ瀬がないのである。
それで思い出したのは,花田清輝が,
戦国時代をあつかう段になると,わたしには,歴史家ばかりではなく,作家まで,時代をみる眼が,不意に武士的になってしまうような気がするのであるが,まちがっているであろうか。時代の波にのった織田信長,豊臣秀吉,徳川家康といったような武士たちよりも,時代の波にさからった―いや,さからうことさえできずに,波のまにまにただよいつづけた,三条西実隆,冷泉為和,山科言継といったような公家たちのほうが,もしかすると,はるかにわれわれに近い存在だったのかもしれないのである。
そう皮肉っていたのを思い出す。
では信長は何をしたのか。
楽市楽座,
検地,
兵農分離
等々,信長が古い時代を打ち壊したというイメージが喧伝されるか,実は,楽市楽座も,検地も,北条氏を始め,他の戦国大名がすでに行っている。では,信長は何をしたのか。
信長の人物像を示すものとしては,ルイス・フロイスが『日本史』で言う,
きわめて戦を好み,軍事的修練にいそしみ,名誉心に富み,正義においては厳格であった。彼はみずからに加えられた侮辱に対しては懲罰せずにはおかなかった。…彼はわずかしか,またはほとんどまったく家臣の忠言に従わず,一堂からきわめて畏敬されていた。…彼は日本のすべての王侯を軽蔑し,下僚に対するように肩の上から彼らに話をした。そして人々は彼に絶対君主に対するように服従した。
著者は,信長の言動に合致するところが多い,と評する。
では信長は何をしようとしたのか。
天下布武
が有名だが,この段階,つまり美濃攻略後,岐阜城に移った時点での,
天下
は,当時の用法にならって,京都・畿内支配,を指していた。しかし,本願寺との和睦がなった頃,
天下一統
を使い始めたときから,天下は,全国に拡大する。そこで目指していたのは,
分国,
つまり自分の領国の拡大戦である。それは,家臣構成を見るとわかる。
領国が拡大するにつれて,数郡・一国の領域支配を,家臣にゆだねていく。たとえば,秀吉には,
江北浅井跡一職進退
出来るようにゆだねる。こうして拡大した織田の分国の,分国を家臣にゆだねていく。しかし,その大半は,織田一門か譜代の尾張出身者が占めている。わずかに美濃出身者がいる程度だ。そして,領国支配をゆだねられた家臣のうち,
尾張・美濃出身者で信長に離反したものはいない。信長との強い絆が形成されていたからであろう。
そう著者は言う。離反者は,
松永久秀,荒木村重,明智光秀,
だけである。その理由を,
信長の戦争は現地の武士を利用し,彼らを家臣に組織しつつ進められたのではあるが,結局のところ,戦国大名はもちろん,有力な国人・武将の多くを討ち滅ぼしたり,追放したりして命脈を絶っていく戦争であった。領国支配者=大名に取り立てられたのはほとんどが譜代家臣であり,現地の中小武士はその給人に編成されることによってのみ生き残ることができた。
だから,こう言い切る。
その意味では信長は旧い秩序の破壊者であったかもしれない。(中略)しかし,もっとも大きな破壊は人的破壊だったのではないだろうか。容赦のない殺戮戦を展開し,その後の信長譜代の直臣を大名にすえる。信長の分国とは信長と譜代直臣の領域支配体制であった。
その意味では,家臣の官位叙任に当たって,
羽柴秀吉が,羽柴筑前守,
明智光秀が,惟任日向守,
等々としたのは,譜代をその地域の(この場合は九州の)大名とする布石と考えれば,納得がいく。
戦国大名らの地域権力は信長のもとで生き残ることはできないから必死の抵抗を試みる。荒木村重や光秀のように信長に取り立てられても,譜代重用のなかでいつまでその地位が保てるかわからない不安がつきまとう。かすかな勝算に賭けて謀反に走るしかなくなる。謀反と頑強な抵抗は,信長の戦争,分国支配のあり方が生みだしたものである。
したがって,明智光秀の謀反も,村重の謀反の延長線上で,著者は捉えている。
本能寺の変の背景や原因を考える時,光秀が村重と似たような立場にいたことに思い至る,
と。村重は,播磨攻略の中心にいて,黒田孝高の活躍も村重が信長に伝えていた。それを突如秀吉にとって替えられた。
光秀は,四国の長宗我部の取次として,強いパイプを保ってきた。然し突如として四国攻略戦略が,三男信孝のもとで遂行されることになっていくのである。
戦功を積み重ねても,謀反の心をもたなくても,信長の心一つでいつ失脚するか抹殺されるかわからない不安定な状態に,家臣たちは置かれていた。一門と譜代重視のもと,譜代でない家臣にはより強い不安感があった。独断専行で,合議の仕組みもなく,弁明,弁護の場も与えられず,家臣に連帯感がなく孤立的で,信長への絶対服従で成り立っている体制が,家臣の将来への不安感を強め,謀反を生むのである。
と,著者が言う通り,これほど家臣の裏切り,謀反の多い戦国大名は珍しい。
最後に,著者は言う。
光秀の謀反は,村重らのように城に立て籠もるのではなく,信長を直接襲撃するという手段に出て成功できた。単独で極秘に策を練り,機を逃さなかったことが成功へ導いた。だが,それゆえに連携がなく,次への確かな展望と策を持つことができなかった。
この一語で,世にかまびすしい謀略説のすべてを粉砕している。上質な研究者の確信といっていい。
あとがきで述べている言葉も,なかなか含蓄がある。
信長の発給文書をみて気づくことは,信長自身は百姓や村と正面から向き合おうとしなかった権力なのではないかということである。郷村宛の禁制以外に村や百姓支配に関わって発給した文書はほとんどないのである。
あくまで,領主にのみ目が注がれ,そのために,
信長には農政・民政がない,
と。これもなかなか含蓄がある。家臣に丸投げしているのである。
基本的には命じられた本人が,戦術を練り,調略・攻撃を駆使して自己の責任で平定の成果をなるべく短期間であげることが求められた。そのために必要な兵力・兵粮・武器弾薬の調達は本人の責任である。
だから,築城,道路整備,,兵粮もふくめた百姓の陣夫,夫役は,家臣たちがしている,ということになる。信長は,
百姓らの負担がどれだけ過重かは関知しない。
その意味で,極めて危い土台の上に成り立っていることがよく分かる。
恵瓊の有名な予言,
信長の代五年・三年は持たるべく候,明年辺りは公家などに成らるべく候かと見及び候,左候て後,高ころびにあをのけにころばれ候ずると見え申し候,
とは,そんな信長体制の危うさを見抜いたものと言えそうだ。
参考文献;
池上裕子『織田信長』(吉川弘文館)
花田清輝『鳥獣戯話』(講談社文芸文庫)
今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
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