2014年03月02日

コーチング


第94回コーチング・フェローズのセッション会,

http://www.coachingfellows.jp/

に参加してきた。

ここには,思い出したように参加させていただいているが,最近は,なかなか人気で,毎回満席,今回も,空席が出てかろうじてすべり込ませていただいた。

懇親会の場で,

コーチをしているのか,

と聞かれて,

言葉を濁したのだろう。そこを突っ込まれた。しかし,

僕は,コーチングについて聞かれると,

やっていないと答える。あるいは,

あまり力を入れていない,

と。それは,

業として

やっていない,という意味だ。すると,よく,

コーチング

をしていないのか,と問い詰められる。そういわれれば,クライアントがいなくはない。すると,

やっているじゃないか,

と咎められる。しかし,「業」としてやっていないというのは,「業」として,それをする覚悟があるわけではない,という意味を込めている。だから,「業として」を省くと,「やっていない」という答え方になる。

依頼を受けると,させていただくが,でなければ,あまり積極的に自分を売り込まない。せいぜい,名刺交換か,ホームページの載せる程度。

それを業としていないということは,クライアントがいないと困る,という生業にはしていない,という意味だ。いい面と悪い面がある。

もちろん,クライアントに向き合って,全力でコーチングする。それは当たり前だ。しかし,どうも,僕は,それをなりわいにはしたくない。店を構える気が,あまりしない。そのために,上記のような,生ぬるい言い方になる。

コーチ

です,というのは,自分は,プロフェッショナルとしてコーチをしている,ということだ。そこが,煮え切らない。

プロフェッショナルというのは,もちろん,ピンもキリもあるが,日夜その技を研鑽して,究める努力をする。というか,していなくては,プロフェッショナルという名に恥ずかしい。イチローを見ていると,プロフェッショナルというのは,ああいうあり方であり,生き方だという,プロフェッショナルの鑑だと,つくづく思う。それほどの研鑽をしていない,という意味だ。

それに,自分は,気が多く,他にも究めたいものが,二つある。そのために,力の注ぎ方は,コーチングに一点集中ではない。

だから,いいという言い方もできる。

逆に言うと,僕は,コーチングにのめり込んでいない分,そのマイナスも見える。その内向きの穴にはまっている状態を,客観的に(もっと言うと批判的に)見る視点が,ある(はず)。それがいい面だろう。

考えるというのは,自己対話だ。しかし,自己対話をメタ化していても,結局その対話の循環,まあ堂々巡りを出るには,別の視角がいる。それについては,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/388611661.html

http://ppnetwork.seesaa.net/article/389704147.html

に書いた。

その視角の多角化を,コーチが果たす。その時,その堂々巡り自体を写す鏡にもなる。

とすると,それをただ機械的に写すのではないはずだ。

コーチ側の視角の多様性,あるいは,幅広さが,写し方を変える。どう写すと,相手自身が,その自分のありように気づきやすいかを考えて(あるいは感じて,が正しい),その視点から写す。

俯瞰がいいとは限らない。虫瞰の方がいいこともある。一瞬に,時系列を写すこともある。

思うのだが,結局,相手を見る見方(それ自体に価値が入らざるを得ないが)は,見る人のあり方,生き方を反映している。反映して当たり前だ。その視点の取り方自体が,生き方の結果で,他の人には思いつかないことだってある。

だから,鏡は,機械的に写すのではない。

クライアントを受け止めること自体が,すでに,コーチの生き方を反映する。それを,どういう角度で写し返すかは,またコーチの価値や生き方を反映する。

鏡そのもの,あるいは鏡への写し方自体に,すでにコーチの生き方が滲まざるを得ない。

だから,コーチングが,アドバイスやコンサルティングやティーチング等々と違うということを言い立てているうちは,僕はコーチとして,プロフェッショナルではないと思っている。

なぜなら,

鏡の立て方,

何に鏡を立て,何を写そうとするか自体に,コーチのアドバイスやコンサルティングやティーチングが入り込んでいる。というか,入り込まざるを得ない。だから,セラピーでは,

コンプリメント



承認

も,クライアントへの

介入

という言い方をする。介入は目的がある。セラピーの方が正直だ。当然認知も,介入だ。そこを際立たせる,というのは,そこを突出して写し出したいという,コーチの意図がある。

それを際立たせる目,視点にこそ,コーチの生き方が反映している。そのとき,自分が生きている状況,時代にどれだけ鋭い目をもっているかが問われていると思う。

文脈抜きのコーチングごっこはしてはならない。

かつて,南宋が元に滅ぼされようとしているまさにその瞬間,儒者が,その幼い皇帝に,皇帝としてどうあるべきかを教えていた,という(うろ覚えだが),そういうマンガチックなコーチ-クライアント関係だけは,避けたいと,本気で思う。

人の能力は,

能力とは,知識(知っている)×技能(できる)×意欲(その気になる)×発想(何とかする),

である,と思っている。その差は,発想にある。発想は,

知識と経験の函数

である。まさに生き方そのものの反映である。

となると,一本足であることを,僕はよしとしていないということになる。

だから,煮え切らないのは,コーチだけの生き方ではだめだという自分の返答を,直截に言わない方便なのかもしれない。


今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm


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posted by Toshi at 06:21| Comment(0) | コーチング | 更新情報をチェックする
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