谷口克広『信長の政略』を読む。
著者は,労作『織田信長家臣人名辞典』をまとめた,市井の歴史研究家である。僕は昔から,結構ファンで,『秀吉戦記』『信長の親衛隊』『織田信長合戦全録』『信長軍の司令官』『検証本能寺の変』『信長と消えた家臣たち』『信長の天下所司代』『信長と家康』等々,ほとんど読んでいる。
本書の動機について,
『織田信長家臣人名辞典』という本が,私の実質上のデビュー作である。出されたのが1995年…その18年間に単著だけで20冊近くも信長関係の本を書かせていただいた。(中略)ただそれら20冊近い著作を振り返ってみて気が付いたのだが,信長について総括した概説書が一冊もない,
という「信長の政治の総括」,いわば,政策全体の概説というか評価というのが本書である。
で,
外交と縁組政策
室町幕府と信長,
朝廷と信長,
宗教勢力と信長,
という周囲との政略と,
信長の家臣団統制
信長の居城とその移転政策
信長の戦略と戦術
という統一選へ向けた政略と,
土地に関する政策
商工業・交通に関する政策
町に関する政策
という民衆統治に関する政策とで最後に総括につなげていく。
朝廷との関係にしても,室町幕府との関係でも,それを破壊するという革命性は薄い,と著者は言う。
信長にとって,律令制の官位というのは,名誉栄典として利用する以上のものではなかったと思う。天正三年十一月の権大納言兼右大将任官は,追放した足利義昭(権大納言兼征夷大将軍)を意識したものだったと思われるが,その後…拒否の姿勢もない代わりに,猟官運動の跡などまったくない。…信長自身の政治的地位は,官位体系とは別次元に存在していた…と(いうのが)正鵠を得た表現といえよう。
そして,足利義昭との関係も信長には義昭を排斥するつもりはなかったようで,人質の子息義尋も殺していない。
著者は,吉田兼和の『兼見日記』にある兼和との対話で,自分の天皇や公家の評判を聞いている信長の様子から,
将軍と対決しようとしながらも,その正義の拠りどころを天皇に求めようとしている信長の姿,また京都にいる貴族や庶民の中に形成された世論をも気にしている信長の姿が浮かび上がるであろう。
そして,
信長ぐらい世間の思惑=世論を気にした為政者はいない,
と言う。
いわゆる,楽市楽座も,別に信長が嚆矢とするわけでもないし,信長が座を安堵しなかったわけでもない。いわゆる兵農分離は,直属の馬廻衆ですら,安土城下での出火騒ぎで,家族を尾張の領地に残したままであることが露見したくらいで,意図とは別に,徹底できていたとは言えないようである。
当然検地も,太閤検地と比べようもなく,
荘園制の特性である重層的で複雑な収取権を否定しきっていない,つまり,中間搾取の形を残してしまっている,荘園領主と妥協した政策を展開した,
と。また,安土城をみるように,近世の城郭の端緒をなすものとの位置づけがなされてきたが,
防御機能はほとんど顧みられず,政治・経済の中心としての役割を置いた白とみなされてきた。だが,惣構えの土手の発見により,
少し様相が変わってきた。近世の城に惣構えなど存在しない。いわゆる戦国自体特有の惣構えのある城,ということになると,安土城の位置づけも変わってくるのである。
しかし,にもかかわらず,著者は,革命児には当たらないが,こう総評する。
信長は現実家なのであり,その基調は合理性にある。だから,「合理的改革」と呼ぶのが最も相応しいのではあるまいか。仮に本能寺の変で倒れず,いよいよ信長の下で統一政権が発足したならば,その改革は次々と成就していったものと思われる。(中略)信長は,途中で倒れるけれども,その成果は時代の豊臣政権,更に徳川幕府へと受け継がれていく,
と。そして,「たら」「れば」で,もし本能寺の変がなければ,四国,九州,東北が,軍門に降るのは,
おそらく三年ほど。五年とかかることはなかった,
と著者は推測する。
参考文献;
谷口克広『信長の政略』(学研パブリッシング)
今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
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