2014年03月04日
社会構成主義
ケネス・J・ガーゲン『あなたへの構成主義』を読む。
冒頭著者は宣言する。
今,世界中で,さまざまな学問の壁を越えた刺激的な対話が始まっています。それがいったいどのようなものかを,ぜひ,読者のみなさんに伝えたいというのが私の願いです。……それは,16世紀から17世紀に起こった,思想や実践の大きな転換…にも匹敵します。なぜならば,その対話は,私たちが「これは事実である」「これは善い」と考えているすべてのものの基盤を根底から揺さぶるだけではなく,クリエイティヴな考えや行為を生み出すまたとない機会を提供するものだからです。
ここで言う対話,こそが,キーワードである。事実も,価値も,我々の外にあるのではなく,我々自身の対話のなかで生み出している,これが,僕の理解した社会構成主義の肝である。それは,どこかに正解があるのではなく,正解はわれわれ自身が創り出している,ということになる。その意味では,専門性や科学性の権威性そのものを,民主化する,というような意味がなくもない。
この画期を,ポストモダンから,説き始め,それを三つに整理するところからスタートする。
第一は,言葉は現実をありのままに写しとるものではない。
第二は,価値中立的な言明はない。
第三は,記号論から脱構築へ。
第三は説明がいるでしょう。これは,ソシュールの,「意味するもの(シニフィアン)」と「意味されるもの(シニフィエ)」の関係は恣意的であり,「降っている雪」を「雪」とよぶのは,たまたま偶然にすぎない。とすると,
あらゆることばがいかなるシニフィエ―対象,人,できごと―でも意味しうる…,
ということになる。そして,もうひとつ,
記号のシステムはその内的な論理に支配されている,
ということをソシュールは言った。ということは,
言語の使用が内なる論理によって決められているということは,「意味」が言語の外の世界から独立したものである,ということを意味する,
ということになる。言語の脱構築を理論化したデリダは,
第一に,すべての有意味な行為は―合理的な決定をする,人生における重大な問題に対してよい答えを出す―はすべて,あり得たかもしれない多様な意味を抑圧することによって成り立っている,
第二は,私たちが行うすべての決定は,たとえいかに合理的に見えても,合理性の根拠を突き詰めてていけば必ず崩壊する可能性をはらんでいる,
と,その不確かさを説明している。それへの一つの答えを,ヴィトゲンシュタインは,
言語ゲーム
というメタファーで示した。どんなゲームにも(自己完結した)ルールがあるように,言葉の意味もそれと同じだと,ヴィトゲンシュタインは,言う。
言葉の意味とは,言語の中でその言葉がいかに使用されているかということ,
である。つまり,言葉は,言語ゲームのなかで用いられることによって,その意味を獲得していく。
それは,言語が事実や心を写す道具ではなく,
言葉を用いてものごとを行っている,
のであり,
相手と一緒に何かを行っている(パフォーマンスに加わっている),
のであり,その中で意味が生まれてくる。つまり,
状況を超えた事実というものは存在しない,
事実はある,ただし,常にある特定の限られたゲームの中に,事実はある,
ということになる。
こう言うことを前提に,社会構成主義は四つのテーゼをもつ。
第一は,私たちが世界や自己を理解するために用いる言葉は,「事実」によって規定されない。
第二は,記述や説明,そしてあらゆる表現の形式は,人々の関係から意味を与えられる。
第三は,私たちは,何かを記述したり説明したり,あるいは別の方法で表現したりする時,同時に,自分たちの未来をも創造している。
第四は,自分たちの理解のあり方について反省することが,明るい未来にとって不可欠である。
第三は,我々の未来が過去ではなく,
人と話したり,何かを書いたりしているまさにその瞬間にも,私たちは確かに未来を創造している
のであり,そのためには,
与えられた意味を拒否する―例えば,性差別者や人種差別者の言葉を無視する―だけではだめで…,それに代わる新しい言葉や,新しい解釈や,新しい表現を生み出さなければなりません,
と言い,それを生成的言説,と呼ぶ。結局社会構成主義は,
事実や全を,社会的なプロセスの中に位置づけ,我々の知識は,人々の関係の中で育まれるものであり,個人の心の中ではなく,共同的な伝統の中に埋め込まれていると考えている。したがって,社会構成主義は,個人よりも関係を,孤立よりは絆を,対立よりも共同を重視する,
という。その点から見ると,二つのポイントが特筆される。
第一に,心理的な言説は,内的な性格な記述ではなく,パフォーマティヴなものである。が,「愛している」ということで,ある関係を,他ではない特定の関係として形づくっている。
例えば,「愛している」を「気になる」「敬愛している」「夢中だ」と言い換えると,関係が微妙に変わる。だから,こうした発話は,単なる言葉ではなく,パフォーマティヴな働きをしているのである。
第二は,パフォーマンスは関係性の中に埋め込まれている。このパフォーマンスには,文化的・歴史的な背景を取り入れなければ何の意味も持たない。つまり,私があるパフォーマンスをするとき,さまざまな歴史を引きずり,それを表現している。言い換えると,文脈に依存している,ということになる。
ある人のパフォーマンスは,必ずある関係の構成要素である,
ということになる。
しかし,ここから疑問がわく。
関係性の中で,自分が依存している限り,確かに,
記憶やその他の心のプロセスが集合的なものであることは,いいかえれば,それらが共同体の中に配分されている,
ということは認めるし,感情も価値も,そうかもしれない。ヴィトゲンシュタインの言うように,
理解(や判断もそうかもしれない)を,心のプロセスとして理解しようとしてはいけない。……その代り,自分自身にこう問いかけてみなさい。私たちは,どんな時に,あるいはどのような状況において,「どうすればいいか,わかったよ」と言うのか,と。
意味を個人の心に閉じ込めるのではなく,人々の相互関係の中に位置づける,
と。それを,僕流に,
関係性の反映,
と呼ぶとすると,しかし,一人一人の脳のなかでの,
関係性の記憶,
というか思考のプロセスは,イコールではない。一人一人が考えていることは,文脈とイコールではない。人によって,異なる。
たしかに,
私はたった一人では,何も意味することはできません。他者の補完的な行為を通してはじめて,「私は何かを意味する」力を得る,
というのはわかる。しかし,社会構成主義の四つのテーゼの言う,第四の,
理解のあり方について反省する,
という,その反省の主体は,誰なのか。結局,この主体なくしては,対話も,反省もない。
この「私」
を「我思うゆえにわれあり」の「われ」を主客二分として,葬り去ったところから,社会構成主義はスタートしたと強調するが,しかし,反省する主体,会話する主体なくして,ゲームが成立するのか。その主体は,ゲームの単なる駒なのか。とすれば,関係性が紡ぎ出す中で,ただ紡がれていればいいのか。
関係性の他者は,主体あってこそ,他者ではないのか。
例えば,こう言っている。
私たちの現実が,他の人々に耳を傾けられ,肯定されて,会話がますます調和したものになった時,変化力をもつ対話へ向けてのさらなる動き―「自己内省」―が生じる可能性が生まれます。モダニズムの伝統として,私たちは常に「統合された自我(ego)」として会話の中に位置づけられています。つまり,私たちは,単独の首尾一貫した自己として構成されています。そのため,論理的あるいは道徳的な一貫性がない人は,人々の軽蔑の対象になりますし,私たちは自分と立場を異にする人々に対して,自らの意見を,ほころびのない織物のように作り上げようとします。したがって,私たちがいったん対立関係に入り込んでしまうと,私たちの距離は決して縮まることがありません。
その関係性に対して,
自らの立場を疑問視する試み―つまり「自己内省」への会話によって,異なる声を受け入れて,多声性を取り入れる会話がいる,と述べる,
その内省する主体である。たった一人のときでさえ,特定の文化に根差した話し方をしているにしても,その主体は,何なのか。統合された自我を否定しながら,そこは,スルーしている。いまある現状をそのままにしていくのか。普通の日常で,人と接している自分を,そのまま前提にするのか。
個人主義的な自己に変わって,関係性の中の自己,
という,その自己のことである。これについては,僕の読んだかぎり答えが見えなかった。
それを無批判に使っている,というところが気になった。それなら,例えば,
自己は,相手から認知されることで存在する,
と徹底的に置き換えてみる。しかし,それでも,そを認知し,受け止める「自己」とは何か,
答が先のばしというか,スルーされたままのような気がする。
僕は,自己について,
http://ppnetwork.seesaa.net/article/388611661.html
http://ppnetwork.seesaa.net/article/389704147.html
書いた。しかし…!
参考文献;
ケネス・J・ガーゲン『あなたへの構成主義』(ナカニシヤ出版)
今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
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