2014年03月08日
真相
フリップ・シノン『ケネディ暗殺(上・下)』を読む。
サブタイトルに「ウォーレン委員会50年目の証言」とある。ウォーレン委員会の全委員(この中には,後のフォード大統領も含まれる),その下で,調査に当たった若い調査員(ほとんどが若いバリバリの弁護士)の,委員会での活動を追っている。そこで,何が明らかになり,意図したかどうかは別に,何が明らかにされないままに残ったかを,つぶさに追う。
そして,報告書発表後の陰謀説ただならない中で,明らかにされたこと,開封された秘密にも言及し,委員会のスタッフたちが,CIAとFBIに,意識的に妨げられ,調査の方向を歪められ,隠されてきた一つの真実に,著者は辿り着く。
著者は,『9・11委員会』の調査報告書が,なぜ真実にたどり着けなかったか,本来責任を負うべき人間が免責されたかを追い詰めた『委員会9・11委員会調査の本当の歴史』を出版しているが,本書は,まさに,「ウォーレン委員会の真実の歴史」を描いている。
誰が何を妨げたか,誰が,どう消極的だったのか,何か明らかにされ,何が隠されたのか,何百という人間に会い,ほかのどの作家にも見せられてない秘密扱いの文書や私信,法廷筆記録,写真,フィルム,そしてその他多くの各種の資料に目を通すことを許された。本書内の発現や引用はすべて,側注巻末のソースノートが詳細に示すように,出典が明示されている。
と言い,こう指摘している。
わたしの目にあきらかなのは,この50年間―実際には,アメリカ政府の上層部の役人たちが,暗殺と,それにいたる出来事について,嘘をついてきたということである―とくに,誰よりCIAの高官たちが。
と,だから,当時のフーヴァーの後任のFBI長官ケリーは,
もしFBIダラス支局があのとき,FBIとCIAの他の部署でわかっていたことを知っていたら,「疑いなくJFKは1963年11月22日にダラスで死んでいなかっただろう」
と,言っている。防げる程度の情報を持っていた。もっていたのに,防げなかったことも,隠蔽の動機になっている。
本書は,当時メキシコのアメリカ大使館にいた,外交官の,国務省のロジャーズ長官にあてた,オズワルドのメキシコ滞在期間での行状に関するメモ(1969年)から,始まる。そして,それを50年後,著者が確かめることで終わる。
そのメモは,重大な方向を示していたが,それを送られたCIAはそれを,「さらなる措置は必要ない」と,CIAの防諜活動の責任者アングルトンの署名付きで,国務省へ返答した。その時点なら,まだより真実に迫れた可能性があったにもかかわらず,である。
著者は,責任者のリストとして,次の人々を挙げる。
第一に,CIAの元長官である,リチャード・ヘルムズを挙げる。ウォーレン委員会に,カストロを標的とした暗殺計画(これに,ケネディ大統領も,弟のロバート・ケネディも関わっている)を話さないという決定を下した。そして,アングルトンとメキシコ支部の責任者スコットが,フーヴァーのウォーレン委員会への手紙,「オズワルドがメキシコシティーのキューバ大使館にずかずか入っていって,ケネディ大統領を殺すつもりだと断言したことを報告する手紙,を行方不明にさせた,と著者は推測している。
アングルトンが隠そうとしたのは,CIAメキシコ支部がオズワルドについて知っていたすべて,さらには,CIAが,暗殺の四年前にさかのぼって,オズワルドを非合法に監視していた(なぜオズワルドをターゲットにしたのかはわからいまま)こと等々がある。
第二に,FBI。FBIは,暗殺日の数時間から,オズワルドに共犯者がいたという発見につながりそうな証拠を追うことを,わざと避けていた。著者は推測する。
フーヴァー(FBI長官)にとって,暗殺を暴行歴のない不安定な若いはみだし者のせいにするほうが,FBIが防げたかもしれない大統領殺害の陰謀が存在した可能性を認めるより,楽だった。(中略)もしFBIが1963年11月にすでにそのファイルに存在していた情報にもとづいてただ行動していればケネディ大統領は死ななかっただろうと断言したのは,フーヴァー自身の後継者のクラレンス・ケリーだった。
暴行歴のないどころか,オズワルドは,七ヶ月前,退役将軍ウォーカーを狙撃し,ニクソンも狙撃すると,公言していた。さらに,ケネディ射殺後,逃亡中に,職務質問した巡査を,射殺している。
第三は,委員会のトップ,ウォーレン最高裁首席判事。ケネディ家との個人的関係から,委員会に,大統領の司法解剖の写真とエックス線写真を,再検討することを拒んだ。それは,
医学的証拠が今日も手のほどこしようがないほど混乱したままになることを保証した,
と,著者は言う。さらに,スタッフに,メキシコでつながる,シルビア・ドゥランの事情聴取をさせなかった不可解な命令も含まれる。
著者は,断言する。
もし…ケネディの司法解剖の写真とエックス線写真を再検討することをゆるされていたなら,医学的証拠と一発の銃弾説についての議論の多くはとうの昔に片が付いていたかもしれない。
第四は,ロバート・ケネディ。著者は,(ウォーレンより)
もっと大きな責任を負っている。
と言い,こう説明する。
ロバート・ケネディ以上に真実を要求すべき立場にいたものはいなかった(中略)。それなのに,ロバート・ケネディは,兄と自身の非業の死のあいだのほぼ五年間,ウォーレン委員会の答申を完全に支持しているとおおやけに主張し続け,そのあいだずっと家族と友人には委員会は勘違いをしていると確信しているといっていた。
ロバート・ジュニアは,その理由を,
兄の暗殺における陰謀の疑念をおおやけに生じさせることで,差し迫った国民的問題,とくに公民権運動から注意をそらすかもしれないと恐れていた,
と言う。
著者の辿り着いた真実は,
カストロ支持者だけでなくキューバの外交官もスパイも参加するダンスパーティにオズワルドが参加していたという事実だけだ。
しかしそこでは,おおっぴらに,
来客の一部が,誰かジョン・F・ケネディを暗殺してくれないか,
と口にしていたのだ。ケネディが必死で叩き潰そうとしていたキューバ革命の生き残りのために。
著者は言う。
事実は,われわれがパーティでオズワルドを見たということだ,
とその目撃者は,50年目に再度それを確認した。その大事な情報が,その当時,ウォーレン委員会に届くことはなかった。
ケネディ暗殺の陰謀説の一部は,とくに陰謀の法的定義を考えれば,それほど強引なものではない。それにはふたりの人間が悪事をたくらむことしか必要ではないからだ。ほかの人間がひとりでもオズワルドにケネディ暗殺を焚きつけていれば,定義上,陰謀は存在したことになる。
と著者の言うように,
使嗾の機会があったという事実は,大きい。
ところで,本書は,陰謀説の根拠となっているらしいことが,いかにいかがわしいデータから出ているか,を示している例がいくつか出ている。暗殺本で著名になったマーク・レインについても,レインからもらった電話で腹を立てた,地元新聞記者エインズワースがかけたいたずらが,大騒ぎになっていくエピソードを紹介している。
この記者は,現場にいて,三発の銃声と,その場にいた人が,教科書倉庫の上部を指差しているのを確認し,走り出して,警官射殺と逃げ込んだ映画館での逮捕を,そのとき目撃している。
著者は,ウォーレン委員会のスタッフたちの地道な,ひとつひとつ洗い出していく手際もきちんと紹介している。たとえば,オズワルドの収入と,支出を,きちんと洗い出している,オズワルドが遮蔽のために積み上げた段ボールについた指紋を特定する,オズワルドは,どこへ逃走しようとしていたのか。手にしていたバスの乗り継ぎ切符から何が推測されるか等々。
著者は,
わたしは委員会の当時若かったスタッフ法律家の大半には賞賛の念しかいだいていない。彼らは明らかに暗殺についての真実にたどりつこうと奮闘していた。
と付言している。
因みに,オリバー・ストーン監督,ケビン・コスナー主演の『JFK』のギャリソン検事を,上記の新聞記者エインズワースは,ギャリソンから電話を受けて,
イカれていると同時に,選挙でえらばれた高位の公務員が,ギャリソンが信じていると明言するばかばかしい話を信じられるという事実に不安を覚える,
と一蹴している。
参考文献;
フィリップ・シノン『ケネディ暗殺』(文藝春秋)
今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
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