2014年03月14日

表現


brillant wing16展という,若手画家の方々の展覧会にお邪魔してきた。

https://www.facebook.com/events/214462895419363/?ref=2&ref_dashboard_filter=upcoming

ほんとに若い現役の美大生の方々と話をして,そんなに違和感なく話ができ,ふと,思い出したことがある。最近読んだ本で,大学のカウンセリングないし,臨床心理学科の先生が,最近の学生の特徴を,

第一は,悩めない。
第二に,巣立てない,

という指摘をしていたのを思い出したのである。後者は,精神的な疾患ではなく,引き籠る例だが,前者は,

問題解決のハウツーや正解を性急に求めるタイプ

漠然と不安と不満を訴えて何が問題なのかが自覚できていないタイプ,

に別れるようだ。問題なのは,この後者で,

内面を言葉にする力が十分育っていないために,大学に適応できず,対人関係にも支障をきたし,いきなり自傷,過食などを起こすが,その自分の行為自体を,説明できないのだ,という。

内面を言葉にし,イメージの世界で遊ぶ力が低下している,

という言葉と,現実に話をした若い二人との差が大きくて,その要因は,絵という表現技術を持っているせいなのではないか,と考えたのである。

それが,スポーツでも,早起きランニングでも,サッカー選手でも,野球選手でも,自分を現実に投げ出すことをしている人は,そういう違和感がないのは,自分という身体を使って,表現をしているに等しいからではないか。

ただ言われたことをしているだけの勉強では,自分というものを表現,ありていに言えば,

対象化する,

機会がなく,それだと,自分という同じレベルの自分と対話しているだけで,内省力はつかない。

前に書いたことと重複するが,キルケゴールの有名な一節が,浮かぶ。

人間は精神である。しかし,精神とは何であるか?精神とは自己である。しかし,自己とは何であるか?自己とは,ひとつの関係,その関係それ自身に関係する関係である。あるいは,その関係に関係すること,そのことである。自己とは関係そのものではなくして,関係がそれ自身に関係するということである。

だから自己対話そのものは自己ではない。自分を是とする自己と非とする自己との関係そのものは,自己ではない。それに関係すること(をメタ化する)が自己なのである。

内省とは,自己対話と対話することと言い換えてもいい。その関係性は,他者との関係性を反映していると,僕は思う。だから,単なる日常的な接触程度の会話を積み重ねているだけならば,堂々巡りの自己対話を出し切れない。

のっけから話がそれたが,若い画家と話していて,違和感がなかったというのは,未熟さや不徹底はあるにしても,自分の問題意識を言葉にして,説明する力がある。それは,

いま自分は何をするためにここにいて,

何をしようとしているか

何がしたいか,

がはっきりしているということだ。その是非を云々する資格はないが,それは,自己対話を対象化している,ということに他ならない。

ひょっとすると,たまたまをそもそもとしているかもしれないが,セラピーの,

箱庭療法

絵画療法

が言語の拙い子供にも有効なように,箱庭のように人形やミニチュアを使って表現するにしろ,絵で描くにしろ,対象化して,表現しようとすること自体が,

自己対話と関係する場,

を作り出している,といえるのかもしれない。とすると,

表現,

というのは,特に,言葉ではなく,何かを使って表現するということは,自分が意識しなくても,自分を対象化し,対象化した自分と対話することにつながる効果がある,ように思える。

その意味では,お二人の,

コンセプトの具現化,肌の質感,

動きの瞬間の具象化,抽象への憧れ,

という言語化は,自分の自己対話と対話した,現時点での明確な自己表現になっている。それが,

技術的なものか
素材的なものか,
画材てきなものか,
主題的なものか,

は別にして,ともかく,そこへ自分を投企するテーマやモチーフを持っていることが確かに伝わってきた。

年寄りが話しても,違和感のないはずだ。

そう見ると,最後は,やはり,言語化は,欠かせない。言語を磨かないことには,その微細な自分を伝えきれないのだから。


参考文献;
最相葉月『セラピスト』(新潮社)



今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
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posted by Toshi at 05:39| Comment(0) | 展覧会 | 更新情報をチェックする
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