作品


多く作品というと,芸術作品をイメージする。例えば,辞書的には,

作品とは,作者の精神活動を通じて創作された表現物を指す,

とある。

英語に詳しくはないが,英語に訳すと,productかworkであり,芸術作品なら,work of artとなるだけで,製品と作品を区別しないらしい。日本語だと作品と製品を分ける。作品には,個人の仕事,製品は,大量生産とは言わないが,工房の仕事,というニュアンスになる。

漢字的に言うと,

製は,

裁つからきている。

衣服を仕立てるところにあるようだ。しかし詩文を作るにも,この字を当てるらしい。どちらかと,カタ,カタチをなすものを指すらしい。製塩,製造,製紙,製糸,製糖,製版等々。

作は,

田をつくる

書をあらわす

ということに端緒がありそうだ。どうしても,作家,作詩,作曲,作事,作者,作品,作法,作用,作業,作文等々。

同じつくるだが,微妙に差がある。しかし,ここからは,個人の思い入れだが,

個人が自分がつくった,

と思えるものなら,作品なのではないか。

知人で,断熱・保温塗装の外装作業を請け負っている人がいるが,その人は,自分の完成品を,

作品

と呼んでいる。ひとつひとつ,カスタマイズし,その現場の状況に合わせてつくりあげている,という意味らしい。それは,ひとつの見識だと思う。

僕は,労働とは,

自己対象化

なのだと思っている。ほんのわずかしかそこに自分らしさが対象化できないこともあるし,自分丸ごと対象化できることもある。その意味で,その労働には,自分が生かされていなくてはならない。

これはおのれの仕事ではなくやらされていることだ,お金のためにしていることだ,と思う人は,自分の人生の無駄遣いをしている。そこで,時間と肉体と頭脳を使って,仕事をしている以上それが,自分にとってただの他人事であるなら,それこそ自己疎外を,自ら招いている。

疎外について,こうある。

人間は意識し,考える存在である。意識し続けながら,自分の中のものを自分の外へ出す。また外界に働きかけることによって,自分の外へモノをつくる。自分の考え出したことやつくった物が,自分を豊かにすることもあるし,反対に自分を抑圧し,非人間にすることもある。

もちろん仕組みや制度的に制約はあるが,そこに作品と見るか製品と見るかの分かれ道がある。

作品を表現と考えれば,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/389193629.html

で書いたように,そこに,

自分にしかできない何かを現出させたということになる。

それがわずかな工夫であれ,わずかな寄与であれ,自分にしかできないことを創り出すために,そこに自分がいる。それを,僕は誇りと呼ぶ。

知人は,

作品,

と呼んだ時,明らかに,誇らしげであった。

どんな仕事も,僕は,作品だと思う。あるいは,別の言い方をすると,自己表現である。前にも書いたが,労働とは,能力の現出化である。

能力とは,知識(知っている)×技能(できる)×意欲(その気になる)×発想(何とかする),である。

発想とは,いままでの知識と経験ではできないことに向き合って,それを何とかすることである。ここに創意工夫がある。もし発想がなければ,単なる前例踏襲,日々同じことを繰り返すルーチンである。

だからこそ,それぞれの能力の自己表現は,作品なのである。




今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm



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