あるところで,こういうことを書いているいる人がいた。
プロコーチとして活躍したければ,
コーチという職業の本質を理解しなければなりません。
クライアントより,自分としっかり客観的に向き合い,
クライアントと同じ以上に,自分の目標に向かい,覚悟を決め,リスクを負い,行動しつづける。
これができずして,クライアントから選ばれることも,
クライアントの心の声を聴くことも,共感することも,最適な質問をすることも絶対にできません。
一見もっともらしいが,僕は,視野狭窄だと感じた。所詮,蟹はおのれの甲羅に似せて穴を掘る,自分のコーチ観,コーチング観を語っているだけだが,そのことに気づいていない。第一,どうでもいいことのようだが,
絶対
という言葉を,見識ある人間は使わない。
僕は,この人は,ビジネスとしてのコーチングを前提にしているのだと推測する。そういう考えもあるが,そうでもない考えの人のことが,この人の頭には,からっきしない。全く視野に入っていない。だから,
視野狭窄
という。
自分が目標を達成し,ビジネスとして成功もしていないのに,コーチ面している,ないし自己満足している,
この一文にすべてがある。自分は,こういうコーチを目指している,ということを語っているだけなのに,それを人を非難する材料に使っている。それは,そのまま,おのれに返るだけだ。たとえば,
ほとんどの人が自分はさて置き,自分をごまかし,自分を癒すために,コーチングを人にやろうとしているか,自分と向き合うことに酔ってるだけの人だと感じてしまうからです。
こう感じるのは勝手だし,部分的に同感と思うことはないでもない,が,あくまで,自分がそう思っただけに過ぎない,という前提を置き忘れ,所詮仮説であるにもかかわらず,それを事実のごとくに,前提にして語り始める,
僕は,一読して,正直,
自分もやりかねないな,
と思った。ある一点で,相手が見えた気がしてしまう。錯覚に過ぎないが。
所詮,自分のコーチング観に当てはめて,それと違うコーチをけなしているにすぎないのだ。人がどういうコーチを目指しているかは,あるいは何も目指していないかは,人がどう生きるかと同様,他人の忖度すべきことではない。そのことが,この人にはまったくわかっていない。
悪いが,僕は,別にビジネスとして成功させているコーチを偉いとは思わない。また,そういうことを望むクライアントばかりでもない。誰もが,目標達成を悩んでいるわけではない。誰もが,そんなことをコーチングしてほしいと思っているわけでもない(僕は,そんなことぐらい,自分でできないやつこそ,ビジネスの失格者と思っている)。
クライアントが求めるコーチは,全く違うことかもしれないのである。目標などという目先ではなく,人生の目的かもしれない。生き方そのものかもしれない,自分の価値そのものについてかもしれない。自分の存在理由かもしれない。人との葛藤かもしれない。クライアントは,ビジネスに成功したいと人ばかりとは限らないのである。その意味でいうと,コーチングについても,コーチ(像)についても,クライアントついても,まったく,
メタ・ポジションをもてていない。
だから,「ある一点」で,と言った。自己肥大と言い換えてもいい。自惚れと言い換えてもいい。勘違いといってもいい。
世の中にどれほどのコーチがいるのか,どれほどのコーチングがあるのかも,弁えず,いや弁えていないから,野放図なことが言えたのだろうが,おのれのコーチングに鼻を高くしている図は,正直言ってみっともない。
今は昔の光通信の,何と言ったか知らないが,あの社長に似ている。
どうもこの人は,文章からみると,自分のコーチ業が,ビジネスとして成功することが,もっとありていに言えば,金儲けに成功すれば,自分のコーチングに箔がついたと思っているらしい。しかしそうは思っていない人にとっては,そんなことはコーチを測る目安ではない。
百歩譲っても,コーチングあるいはコーチを測る,唯一の目安ではない。逆に,コーチで(あるいはセラピーでといっても同じだか),金儲けしている輩こそ,胡散臭いと考える人間だっている。どっちが正しいかではない。なりわいとしてのコーチについては,
http://ppnetwork.seesaa.net/article/390224446.html
で書いた。そういうコーチを求めるクライアントもいるだろうから,それはそれでいい。それはしかし,コーチが決めるのではなく,クライアントが決める。コーチに似たクライアントが,そのコーチに来る,というだけで,それがすべてではない。
大事なのは,相対的なものの見方だ。それを測る目安が,
メタ・ポジション
なのだ。
例えばだが,僕は,コーチをつけるエクゼクティブを軽蔑している。自分の起業をコーチングする人間も軽蔑している。自分ひとりでとことん考えないやつに,経営ができるはずはない。起業ができるはずがない。風潮だから,勝手にすればいいが,トップクラスの企業家がコーチをつけている,聞いた瞬間,トップクラスではないと見なすことにしている。そういうコーチング観もあるということだ。
そのことについては,
http://ppnetwork.seesaa.net/archives/20140214-1.html
で触れた。
ついでだから,書くが,自分に向き合うことも,コーチに必須とは思わない。そんなことをしなくても,クライアントに向き合い,クライアントの気づきに立ち会えるコーチはいる。まして,
クライアントと同じ以上に,自分の目標に向かい,覚悟を決め,リスクを負い,行動しつづける,
のも必須とは思わない。そんな程度のことは,普通の人間は,そう意識しないで日常やっている。働くということは,まさに,
自分の目標に向かい,覚悟を決め,リスクを負い,行動しつづける,
ことなのではないのか。日々営業マンも,事務の人も,開発の人も,研究者も,何も「リスクを賭ける」などという大袈裟な言い方をしないだけで,やってのけている。それだけのことだ。それを特殊と思うこと自体に,思い上がりがあるが,まあいい。
コーチがどんな経験をしているかなんぞは,どうでもいいのだ。クライアントに関心があるのは,クライアント自身であり,クライアントの人生だ。
あるいは,
自分の目標に向かい,覚悟を決め,リスクを負い,行動しつづける,
というのは,コーチが自分の納得のために,弁明のために,自尊心のためにやっているだけで,クライアントは,クライアント自身の人生について,聴いてほしいのだ。
僕は,呑兵衛でもろくでなしでも,いい加減な人生を送っている人でも,クライアントに向き合った瞬間,
クライアントのいるその場にいて,一緒にクライアントの見るものを見られる人,
なら,それで立派なコーチングなのだと思っている。生真面目に,自己に向き合うほど,らっきょの皮をむくように,何もない自己に気づくだけだ。
ああ,つまらんことに時間を使った。こういうコーチがいるから,コーチング界は,まだまだ未熟なのだ。多様性こそが,どの世界でも,活性化の鍵でしかない。
所詮,コーチング,コーチという理論と実践,方法自体,例によってアメリカから借り物の理論に基づいている。つまり,
自分の目標に向かい,覚悟を決め,リスクを負い,行動しつづけ…
た結果,自分が考え出したことではないということだ。僕流のプロフェッショナルの定義から言えば,
http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163044.html
で書いたように,一流ではなく,二流以下でしかないので,誰もかれも,同様に,
剽窃者,
下世話に言えば,
パクリ,
でしかないことを忘れないことだ。
それを謙虚という。
今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
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