2014年03月24日

才能


才能,

という言葉に,ずいぶん振り回されてきた。最近は遺伝子レベルで限界がある,と言うことに,ようやく納得するようになった。まあ,ありていに言えば,諦めがついた。

才能を,辞書で引くと,

才知と能力,

とあり,

ある個人の一定の素質,または訓練によって得られた能力,

と。しかし,才知を引くと,

才能と知恵,

とあり,

物事をうまく行う,頭の働き,

と。

要するに,これではよくわからない。

では,能は,と見ると,

為しうる力,

とあり,才は,と見ると,

ただす,見分ける,目利き,

とある(「裁」と同義)。ここから,僕流に,勝手に妄想するに,

才能と言うのは,

自分の能を目利きすることができる,

ということなのではないか。

言い換えると,

能力の即自性,あるいは,即自的な能力,

ではなく,

能力の対自性,あるいは,対自的な能力,

つまり,自分の能力への批評力がある,ということではないか。

才知は身の仇

という言い方があるが,小賢しい才知で何とでもなっている,思い上がりを諭している。

つまり,ただ能力があるだけでは,才能とは言わない。それはただの自惚れに過ぎない。そうではなく,

自分の力量,技量を,測れる,

ということに力点がある。因みに,能力は,何度も言うが,

知識(知っている)×技能(できる)×意欲(その気になる)×発想(何とかする),

である,と考えている。

多少能力があると,ついつい自惚れ,鼻が高くなる。それは,井の中の蛙に過ぎない,それを,客観的に測る目利き,つまりもっと広い世界の中に,自分を配置し,位置づけることができて,初めて,本当の意味で才能がある,と言うのではないか。

まあ,自分へのメタ・ポジションを持っているかどうか,と言うことだ。

過不足なく,自分の力を,測れる,それ自体が,能力といっていい。だから,ただ能力の有無だけでなく,おのれの能力の凄さ,ダメさを,きちんと目利きでき力,

それがあるのを才能と言うのだろう。

そう考えたとき,イチローの凄さがわかる。たとえば,こんなことを言うのである。

実際見るとラッキーのヒットだったって言う人って結構いると思うんですよ。でも,僕の中では全く違うんですよね。
変化球が来ても,ヒットにできる。真っ直ぐが来ても,詰まらせてヒットにするっていう技術があるんですよね。

誰も,自分のやっていることは,自分にとって当たり前で,それが人より優れていると,気づけることは少ない。だから,多少能力があっても,

いやいや,私なんて,

と謙遜する。それは悪いことではないが,ただの謙遜でなければ,その瞬間,その人自身が,

自分の才能の目利きができない,

ということを露呈している。

自分の才を,正確に,つまり等身大に,目利きすることは,ことほど左様に,難しい。邪心,我欲なしに,

自分の才を測る,

それ自体が,いかに冷静な客観的な視野を持っているかの目安に違いない。

それが出来なければ,ただの自惚れ屋か自己卑下屋になってしまう。

いやいや,これは,おのれのことを言っている。




今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm



posted by Toshi at 04:50| Comment(0) | メタ・ポジション | 更新情報をチェックする
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