2014年04月01日
処女作
処女作が最高傑作,
と,あるところでついつい言ってしまったが,それをどこかで,目にした記憶がぼんやりある。何をもって処女作というかはいろいろあるが,
初めて完成させた作品,
というのでは,習作との区別がつかない。意味的には,習作とは,
文芸・音楽・絵画・彫刻などで,練習のために作品をつくること。また,その作品。エチュード,
となる。どれを見ても似たような感じになる。練習のための作品ということなのだろう。そこには,
発表を想定しない,
あくまで練習作という意味といっていい。処女作,という以上,ただ最初に書いた,という意味ではなく,
発表を考えた,
あるいは,
初めて発表した,
作品ということになる。そこには,発表を期して書いた(描いた)が,発表されぬまま埋もれたものも含まれる。
瞬間に思い浮かぶのは,太宰治の『晩年』である。その作品集のエビグラフに,
撰ばれてあることの
恍惚と不安と
二つわれにあり
というヴェルレーヌの詩が載せられているのも意味深である。ふと思い出して,探し出し来たのは,奇跡的に一冊だけ残っている,筑摩書房の新書サイズの『太宰治全集』の第一巻である。
あとがきに,
私はこの本一冊を創るためにのみ生まれた。けふより後の私は全く死骸である。
と書いている。これが真意かどうかは別に,発表を想定して初めて書くということに込められたエネルギーは信じてよい。そこには,
私はこの短編集一冊のために,十箇年を棒に振った。まる十箇年,市民と同じさわやかな朝めしを食はなかった。私は,この本一冊のために,身の置きどころを見失ひ,たえず自尊心を傷つけられ世のなかの寒風に吹きまくられ,さうしてうろうろ歩きまはってゐた。
という,十年分の想いの丈が込められている。そのエネルギーだけで,以降の作品は,『晩年』にかなわないと思う。
いやいや,ここで,太宰のことを言うつもりではなかった。大して好きな作家ではない。そうではなく,僕自身にも,それに似たことが思い当る,と言いたいだけだ。
仕事で書いたこと,私的で書いたこと,いろいろあるが,もう処分してしまってどこにもないが,大卒後就職した小さな出版社の雑誌に,初めて編集後記を書かされたが,たぶん,すさまじいエネルギーと集中力だったと思う。いまは,そんなエネルギーを収斂させて,彫り込むような文章は書けない。
思えば,初めて出した本の拓いた世界から,未だに飛び出せていないのかもしれない。そのことは,私的に書いたものについても言えるのかもしれない。私的には,
http://www31.ocn.ne.jp/~netbs/critique102.htm
で,自分の能力の限界を感じたと,ずっと思っていたが,ひょっとすると,それは能力というより,
そのとき描いた世界,
から出られない,というのが正しい。その程度の世界しか描けなかった,という言い方もあるし,そのときの視圏,和辻哲郎のいう「視圏」のパースペクティブが,それだけのことだったということもできる。
それは逆説的な言い方なのであって,ありていは,
最初に広げた風呂敷
は,自分のキャラや性格通り,大風呂敷とはいかなかった,自分で言うのもなんだが,
律儀で,
小心で,
真っ正直な世界,
であったということだ。そして,いま思うに,
そのときできる,
知力,
感性,
体力,
技量,
のすべてを投入したことには,間違いはない。
その意味で,最初に,自分の超えるべきハードルを高々と,掲げ,生涯を懸けて,それを超えていくしかない,自分自身という壁なのだと,つくづく思う。
それが,
処女作,
というものの持つ意味なのだろう。
今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
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