つけ
私の体験のなかには,思想化されること,一般化され,体系化されることをはげしく拒む部分があり,それが私の発想のもっとも生き生きした部分を形成しているのだ。
石原吉郎の,この言葉に触発されて,いろいろ考える。
石原は,シベリアの強制収容所の取調官に,
もしあなたが人間なら,私は人間ではない,
もし私が人間ならあなたは人間ではない
と,ラーゲリの非人間的な取り扱いに対してそう言って,死んでいった石原の友人(鹿野武一)の言葉を思い出す。
取調官は,飢えきった囚人を目の前に引き据え,自分はゆっくりと食事しながら訊問する,鹿野の言葉は,その非人間性を指している。非難ではなく,事実の指摘なのである。そして,石原は,ここに,
国家
を見る。あるいは,非人間的な官僚を見る。
いま,フクシマで,放射線の線量を測定する線量計の数値が高すぎると,数値を下げることを厳しく指示した,文部省の官僚は,その線量計に変わって,別の低く数値の出る線量計を設置し直している。普通なら,低い方を取り上げる。それが,人間の視点だ。しかし,彼らは,官僚なのだ。
https://www.youtube.com/watch?v=6JdXl7Ol5_U&feature=player_embedded#t=137
ここにも,おのれの職務を非情にこなす官僚がいる。鹿野の問い,
もしあなたが人間なら,私は人間ではない,
もし私が人間ならあなたは人間ではない,
が,ここでも生きてくる。
安全だという,命に別状はない,と言う。
ただ,そこに但し書きがいる,
いますぐは,
と。そして,何十年かしてから,心臓病か癌になる。しかし,それは,因果をたどられることはなく,
自己責任,
と言われるだろう。第一,安全と保障した役人も,政治家も,とうに死んでいて,責任の埒外にいる。
アウシュビッツ等々のホロコーストに関わった,ヘス,メンゲレも,その末端の看守も,すべてただ官僚として職務を遂行したに過ぎない。
石原は言う,
居ずまいを正すな。そのままの姿勢で,
と言う。
事実を事実として,本当のことを言うこと,
がいまほど重要な時期はない。
そこにあるものは
そこにそうして
あるものだ
見ろ
手がある
足がある
うすわらいさえしている
見たものは
見たといえ(「事実」)
おのれの責任の埒外の戦争に駆り出され,
おのれの責任の埒外の密告でラーゲリにたたきこまれ,
自分の責任の埒外の酷寒のシベリアで過ごし,
自分の責任の埒外の僥倖で生きのび,
自分の責任の埒外の時代に翻弄されたものが,やっと語る真実を,しかし,国家はなかったことにする。
あるいは自己責任,と言うかもしれない。
その理不尽さは,いまの理不尽さの中にある,
それを見逃してはならない。
それを見過ごしてはならない。
それを見なかったふりをしてはならない。
それを黙認してはならない。
責任は,とらされるものではない。
責任は,取らせるものだ。
かつて赤紙を発行した官僚は,淡々とおのれの責務を全うした。淡々とまっとうした責任を取ることなく,天寿を全うした。
責任を取らせなくては,ならない。
つけだけ国民が支払う義務はない。
嫌なものは,嫌と言わなくてはならない,
分からないことは,分からないと言わなくてはならない。
知ったかぶりも,きいたふうな口もきいてはならない。
そのつけは,彼らは払わないのだから。
官僚も政治家も
つけ馬
である。こっちの覚えの有無にかかわらず,いつの間にか,つけだけが嵩上げされ,取り立てられている。
今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
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