2014年04月04日

沈黙


沈黙については,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163541.html

にも書いたし,何度か触れている。

黙っていても
考えているのだ
俺が物言わぬからといって
壁と間違えるな

という,壺井繁治についても,前にも触れたが,沈黙というと,反射的にこの言葉が浮かぶ。

昨今,沈黙というものの値打ちが下がった。と思って調べたら,これも,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163036.html

で,書いていた。いつも思うことは同じらしい。僕自身が,ぺらぺらよくしゃべる方なので,余計に,

寡黙

に憧れる。かつては,

沈黙は金,雄弁は銀,

と言ったが,お喋りについては,ない。いまは,お喋りがあるだけの気がする。確かに,

口にしないことは伝わらない,

とは思うが,のべつ幕なしに,喋りつづけることには,抵抗がある。チャットもLINEも,それに似ている。そこでは,

言われたことばより
言われなかった思いの方が重い

語られたことより,
語られなかったことの方が深い

という気がする。ヴィトゲンシュタインの言うように,

およそ言いうることは言い得,語りえないことについては沈黙しなければならない,

なのに,

言うべきこと,

言わなければならないこと,

ではなく,言っても言わなくてもいいことだけが言語化される。

言わなければならない,そのとき,というものがある。しかし,言葉が浮くように話されるところでは,

そのとき,

が見えない。なぜなら,その会話は,文脈とは切れた,関係の中だけで共有される,言ってみると,

自己完結された会話,

だから,とき,がない。ときがない,とは,

そのとき,

がない,ということだ。「その」に意味がある。それは,

リアリティ感,

といっても言い,現実感覚といってもいいし,時代感覚といってもいい。いわば,

そのとき,その場所,

に生きている,ということだ。そこにいなければ,

そのとき,

が見えるはずはないし,たった一度の,

その一瞬,

など気にもならないだろう。

本来,言葉は,会話は,文脈に依存する。だから,主語はいらない,場合によっては,

あれ,

だけで通じる。

文脈を共有すると,Tグループでの 体験で書いたように,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163086.html

場を共有することで,心が,思いが,共有される。そんな感覚を味わったことがある。それは,場が,それぞれに共有されて,場に埋もれた状態で,言葉が極端に必要がなくなった。

そのとき,黙っている,という感覚はなく,お互いが,会話しあっている,感じがあった。

沈黙のコミュニケーションになっていた。

本質的には,沈黙は,

黙とは,内心の言葉を主体とし,自己が自己と問答することです。自分が心の中で自分に言葉を発し,問いかけることがまず根底にあるんです,

と吉本隆明が言っていたことに通じる。だから,壁ではない。ただ,それも,

その人のいる文脈に依存している。そのとき,

自己対話などしているべきでない,

ことに気づけるかどうかは,

意識が内向きの自己対話になっているか,

意識が外向きの自己対話になっているか,

で異なる。これについては,考えるに関連して,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/389704147.html

で触れたことがある。

内向きの自己対話は,自己完結であり,外に閉じている。それは,沈黙ではなく,

思考停止,

である。あるいは,

妄想,

ぶある。よく電車で,一人対話というか一人口論をしているのを見かけるが,あれである。

本来,自己対話の原型である,内語は,

外に出ない思考(考える)

であり,内向きの自己対話は,

内語,

ではなく,独り言である。それは,現実から遊離した空想世界に漂っているだけである。



今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm

posted by Toshi at 05:11| Comment(0) | 自己対話 | 更新情報をチェックする
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