2014年04月07日
トークライブ
トークライブというのは,
「talk+live」。おしゃべりや対談を中心に構成される催し。トークイベント。
とある。まあ,昔から,対談のような形であったものだが,いまブームらしい。ネットで見ると,
ブームというよりは,文化が定着した感じ。トークライブがやっと認知されてきた。今まではトークをわざわざ見るっていうのが珍しかったけど,だんだん知られて定着していった,
という現場の声があった。
飯塚和秀氏が,電子書籍『普通の雑談』で,主宰しているトークライブについて,その狙い,意図を語っている。
飯塚氏の口癖は,ゲストとの,
ガチトーク,
である。したがって,
当日ゲストと会うまで,ファシリテーター側もゲスト側も,事前準備なしで,
当然資料はない,
トークの展開は,全く読めないフリートーク,
というところが特徴になる,とある。
登壇するゲストは,飯塚氏自身が,選ぶ。基準は,氏の直感,
この方って,なんだかとっても魅力的という,フィーリングだけでゲストとしてお招きする,
とのことで,相手のことをそれほど知らないことも多いそうだ。事前に相手のことを調べないのは,
一般参加者の代表という立場で,
トークを進行する,というこだわりがあるようである。そこで,ファシリ役とゲストだけで参加者を置き去りにしないために,
専門家vsど素人
という構成を狙うのだという。そうすることで,
ファシリテーターが「素人目線」でゲストの「専門性」を引き出していく。そのことで,一般参加者との壁が無くなり,「一体感が生まれるイベント」
に近づく,と。
僕自身も参加したことがあるのでわかるが,他のトークライブで,単なる司会進行役の人がいて,ゲストがほとんどの時間しゃべるというのとは,少し様相が違う気がする。
たぶん,氏のトークライブでは,ファシリテーターとゲストが
半々くらいで,
喋り合っている。氏自身は,これを,例の,タ○リの,友達の○になぞらえて,
雑談,
と表現されている。確かに,雑談ではあるか,それだと,「ガチ」の意味が伝わりにくい。
用意なく,
そのとき,その場で,
の両者の「自分」がぶつかり合う,と言うと大袈裟だが,
出会いがしらのやり取り,
というのが特徴のような気がする。そこが,
ガチ,
たるゆえんだ。
何度か参加者として,参加させていただいた感じから言うと,仕掛けはある。
場づくり,
がうまいと感じる。何を話すかについて,主導権は,トークゲストにはない。ゲストが話したいことを話すこともなくはないが,多く,
何を聞きたいか,
を参加者に尋ねるか,飯塚氏がいくつか挙げたりする。その聞きたいリストに沿って,概ね進んでいくことになる。つまり,
ゲストの話したいことではなく,
参加者の聞きたいこと,それに,飯塚氏自身も聞きたいこと,を加え,劈頭から,参加者側の聞きたいことに焦点を当てるので,参加者とゲストとの壁というか敷居が下がる。そのために,途中で,
質問や突っ込み,
が,参加者も随時入れやすい雰囲気になる。それが場づくりになっていて,
ファシリテーターとゲストのトークではなく,
ゲストとファシリテーター+参加者
とのトークというか,自然なやり取り,つまり,
雑談,
的な雰囲気になる。一方的に参加者が受け身になる,という雰囲気意ではない,(少人数ということも手伝っているかもしれないが)と,僕は感じている。
そうやって話が始まっても,その中身について,確かにゲストが主役なのだが,ゲスト自身の世界を,ゲストが好きなように喋れるわけではない。
どこに焦点をあてるか,
何をもっとふくらませるか,
どう広げるか,
どこへシフトさせるか,
は,多くファシリテーター飯塚氏のイニシアティブになる。あるいは,随時参加者に問いかけたり,参加者が投げかけたりする質問によって,結構曲折がある。当然とんでもない方向に行くこともある。
特に目立つのは,飯塚氏の,ゲストの世界に対する,ある時は,突っ込み,ある時は,ぼけ,ある時は,素朴な質問で,結構細かいところまで,押し広げていく。
そのファシリテーションの鍵になるのは,ご自分の体験である。
ひとつは,ご自分の若い頃の芸能界時代の個人として業界を生きてきた経歴,
いまひつとは,IT企業の管理職というビジネスパーソンとしての問題意識,
あるいは,マージャンやスポーツ(野球等々)といった個人的な体験談,
に引き寄せながら,話を膨らませる。たとえば,
それってこういうことですか,
それって何々に似てますね,
それって自分の何々と同じですね,
それってこういう意味じゃないですか,
いまビジネスシーンではこんなことがあって,それと対比すると云々,
等々。その多くが,メタファーやたとえ話,アナロジーの効果をもち,理解が具象的になることがある。その意味で,
ご自身(の経験)をだし,
にして,意識的に,ご自分の素をさらけだし(?)つつ,ゲストの素を引きずり出していく,というやり取りになっていく。まさに,例えは悪いが,
ご自分の持てるリソースをえさに,ゲストに喰いつかせている,
という感じである。
多くの参加者が口々に言うのように,まさに飯塚氏のファシリテーションあっての,トークライブになっている。だからと言って,それがいわゆる対談のような堅苦しさではなく,
雑談,
の自然さを失っていない。だから,障壁なく,参加者からも突っ込みやすい雰囲気が保たれる。
ここでゲストに語られることは,飯塚氏が引き出さなければ,あるいは,飯塚氏に促されて,参加者が訊かなければ,決して語られることのない話なのだという気がする。
言い方が悪いのだが,本来,
黒子のはずのファシリテーター,
なのだが,どちらかというと,
狂言回し,
に近い。狂言回しは,
物語において,観客(あるいは読み手などの受け手)に物語の進行の理解を手助けするために登場する役割,
端的に言うと「進行役」兼「語り手」兼「語り部」に当たる役割である,
そう,自分のことをだしに,相手の話を引き出し,それをご自分の経験に引きつけて,意味づけたり,例えたり,解釈したりして,
ゲストの世界を,参加者の世界とつなぐ,
そういう役割を果たしているように思える。
確かに,終ったあとは,ゲストの話が残るのだが,考えてみると,トークライブのプロセスでは,それを引き出すために,
対照として,飯塚氏自身の経験や考え方をだしに,というか,それを七色のスポットライトにして,
ゲストの経験・考え方・生き方
を様々な角度から照らし出している気がする。だから,最後に,印象として残っているのは,まぎれもなく,
ゲストの多面的な姿そのもの,
が浮かび上がっているのである。たぶん,飯塚氏がファシリテーションしなければ,こういうゲスト像は描き出されることはない,そういうトークライブになっている。当然,それは,いい意味でも悪い意味でも,飯塚氏(と参加者)の持っているものによって,深度も広がりも制約される(参加者によって,だから場の雰囲気も進行も,中身もかなり変わる)。
その面から言っても,間違いなく,飯塚氏とゲストの
ガチトーク,
なのだ,とつくづく思う。
更に付け加えると,ゲストの面白さを,こういうカタチで,現実化する舞台装置を整える,という意味では,ファシリテーターの顔以外に,
ゲストと参加者をつなぐ,
(飯塚氏の肩書にある)イベントプロデューサーとしての顔も十分機能しているのも,また確かである。。
今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
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