2014年04月13日
乖離
僕には,危惧がある。
社会から乖離していないか,
と。自分は,しっかり社会に足をつけているのか,と。この時代をどれほど,ひしひしと感じとっているのか,感じとれているのか,と。その時代感覚,状況認識がなければ,ただの妄想,自己完結した,自分探しごっこに過ぎないのではないか,と。
コーチ-クライアント関係は,両者が合意した,
電車ごっこの紐の中にいる,
状態である。それは,自己完結し,閉じた会話になりやすい。
石原吉郎がこんなことを言っている。
大事なことは詩を理解することではなくて,詩を書くことであり,他人の詩を理解することではなくて,自分の詩を書くことである。僕らは断じて批評家になってはならぬ。
ずいぶん前,ある先輩のコンサルタントは,口癖のように,コンサルタントは,
虚業,
だと言っていた。まあ,
実業ではない,
という意味なのだろう。
少し深読みしすぎかもしれないが,大袈裟な言い方をしたら,自分は安全なところにいて,人の人生に関わる,そういう援助職ばかりになったら,現場の人ではいなくなる。それでは社会が成り立たない,というような。
自分も「ちょっとだけ」にしろその端くれだが,コーチングに少し危惧を感じているとすると,二つある。
ひとつは,人の手助け,を名目に,自分自身が現実の修羅場から逃げているのではないか,ということだ。
いまひとつは,狭いコーチ-クライアント関係という内向きの関係に閉じこもって,あるいはクライアントの成果に寄り添うことで,この時代の,この社会の危機が見えていないのではないか,ということだ。
後者を先に言っておくと,何かの童話にあったと思うが,巨大な魚だったかクジラの上で平和に暮らし,そこでの幸せを求めているが,クジラが一つくしゃみをしただけで,そんなものは吹っ飛んでしまう,というのがあった(ような気がする)。
僕は,コーチが成功しているとかしていないか,コーチ自身が目標に向かっているかどうかなど,どうでもいいと思っている。コーチ-クライアント関係で,クライアントの自己対話をリフレームできる力量と,コーチとしての器量があれば,極端な話,ボロを着ていようと,飲んだくれであろうと,クライアントには何の関係もないと思っている。そういう外見や見栄えが欲しければ,そういうコーチにつけばいいだけのことだ。僕の知ったことではない。
そのことは,
http://ppnetwork.seesaa.net/archives/20140318-1.html
で,もう書いたのでこれ以上は触れない。
しかし,コーチは,
コーチ-クライアント関係
へのメタ・ポジションだけではなく,
自分たちを含めた,時代と社会へのメタ・ポジションを持たないようなコーチで大丈夫なのか,と危機感がある。
二つ目のことは,これに関わる。
前にも書いたが,元に滅ぼされようとしている,まさにその瞬間も,幼い南宋の皇帝に帝王学を懸命に説いていた儒者のようなコーチは,コーチである以前に,いまを生きる人間として,何かを欠いているのではないか,という気がして仕方がない。
さて,ひとつ目の件だが,自分は,社会に自己対象化(労働にしろ,サービスにしろ,何某かの自己を投企)しているかということだ。
だから,僕は,コーチ専業にあまり好意的ではない。これについては,
http://ppnetwork.seesaa.net/article/390224446.html
で書いたことがある。社会から上がったような人間を信じない,ただけそれだけのことだ。
ひとには,その人毎に役割があり,マネジャーがいちいち現場に口を出し,一兵卒のようなことをしていては,自分の役割の持つ修羅場が見えなくなるように,それぞれに修羅場は違うだろう。
しかし,なんとなく,人生や社会のあり方について,評論家のような立ち位置になっていることに無自覚な人を見かける。それは,現場で修羅場を担っている人間への侮蔑であると同時に,自分への侮蔑である。
コーチはいったいこの世の中に何を生み出しているのか,
という問いもいいが,
コーチがいなかったら,本当に社会は困るのか,
とか,
コーチがいなかったら誰が困るのか,
という問いでもいい。
ひょっとしたら,困らないのではないか。ただ,ひとが,自分でとことん考えに考え詰めて,自力で土壺から抜け出す自助努力を妨げているだけではないのか,
そういう自制心というか,謙虚さがいるのではないか。時々,傲慢なコーチを見かける。二か月ほど前,
若い人と話すと,すぐに変わる,
若い人を変えてみたい,
と笑いながら言っていたコーチがいた。(それを決め寝のは相手だなどということは,当たり前だから言わないにしても)冗談を言ってはいけない。あなたは,その人の人生を生きるボスではない。人は,自分の人生という舞台で主役を張る。それが,傍から見て,どんなに危かろうと,どんなにいい加減であろうと,人がとやかく言うことではない。
こういうコーチがいるから,コーチングは邪魔なのではないか,と危惧してしまう。
本来,人は,自分で考え,自分で人生を突破していかなくてはならない。それを,誰かに立ち会ってもらわなくては,それができないようなシチュエーションを創り出すために,コーチがおり,コーチングがあり,コーチング・セッションがあるのだとしたら,それは本末転倒,というか,ただの邪魔というか害毒ではないか。
僕は,自分の人生をたったひとりで戦い抜くために,ひとりで考え,ひとりで悩み,ひとりでそれを克服していく,そういう力こそをつけるべきだとつくづく思う。そのとき,そのことを分かち合える人間が誰なのかもわかる。それをコーチが代役してはならない。
人は自分の物語を完成するために,生きている。
自分の物語を楽な方へ逃げた人間に,一人の人生のサポートが本当にできるのか。
僕は,自戒を込めて,自分自身に,問いたい。
自分の人生の修羅場から逃げるために,いまの仕事をしていないか,
と。
だとしたら,何かから逃げるために,コーチという職業を選んでいる。何かから逃げるとは,大事な人生の逸機でしかない。その何かこそが,人生の大事なポイントだったかもしれない。
それを逃げたとしたら,人生の「そのとき・その場」の切所を見落としたことになる。
人生は語るものではなく,生きるものだ,
という。それが「生きるべき」人生なのだと,僕は思っている。
おのれの背負い込むべき修羅から逃げること,目を背けることは,自分の生きてある場所から目を背けることだ。それは,時代から,社会からの逃避を意味する。
自分が人生を生きるとは,この時代の中で,社会の中に,何かを生み出すために,必死で格闘することだ。それは,自分を対象化し,そこに,何かを形づくることだ。直接的な労働かもしれないし,サービスかもしれない。
それと比べて,人に誇れるのか,
自分が何を生み出しているのか,と。
コーチングを受けていることが,ルイヴィトンやシャネルと同じく,ただのステータスになったら,コーチングはあってもなくてもいいものになる。
そう考えたとき,
でもなお,
おのれのコーチングが存在する理由,
があるのか,そういう自問をやめてはならないと,つくづく思う。
この問いは,死ぬまで続く。いや,続けなくてはならない。
それを,謙虚,と言う。
今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
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