2014年04月15日
応答
川本恵さんの「ミーディアム」に参加してきた。
ミーディアムについては,
http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163437.html
でも,
http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163469.html
でも触れているので,そう新たに付け加えることはそんなにはないが,ここでは,天について,再度考えてみたい。
天についても,
http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163401.html
でも触れたが,
死生命有
富貴天に在り(『論語』)
が好きである。自分には兄弟なくひとりぼっちだと司馬牛が言ったのに対して,子夏が言った言葉だ。そして,
敬(つつし)みて失なく,人と与わり恭しくして礼あらば,四海の内皆兄弟たらん,
とつづく。ここでいう,天には,「生き死にの定め」「天の与えた運命」の二つが並列されている。
だから,思うのだが,つまるところ,
生かされてある,
という言葉がぴったりくる。
この身を通して,一生分を,生き切ることで,お返しをする。ひょっとすると,そこでの生き方そのものが,すでに,天命へのお返しになっている。大した一生分ではないが,
困難・苦難を引き受けるのもそうかもしれない,
黙過できず,いらぬ騒動にまきこまれるのもそうかもしれない,
言わでもの本音をちろっと漏らして,苦境に陥るのもそうかもしれない,
三度死にかけたのもそうかもしれない,
理より情宜に錘を一つ二つ余分に乗せてしまうのもそれかもしれない,
四十五十にして聞こゆること無くんば,斯亦畏るるに足らざるのも,またそうかもしれない,
そうか,どういうわけか,その場で,ついつい出た言葉が身に返るのもそれかもしれない,
こういうのは,八百万系の魂の特徴らしいから,なおのこと,
そう生きることで,天にお返ししている,
のかもしれない。
死して後已む,また遠からずや,
である。うまく言えないが,ちょっと思い違いをしていたようなのである。
天命とは,
何かこの世で果たすべきこと,
あるいは,
使命・役目,
あるいは,
なすべき何か,
といったことと,それを達成することにのみ,目を奪われていた気がする。
そうではないのではないか。
愛弟子顔淵の死を前に,
天,予(われ)を喪(ほろぼ)せり,
と孔子が慟哭したのも,また,
鳳鳥至らず,河,図を出ださず。吾已んぬるかな,
と,絶望する,孔子の晩年も,また天命である。
身をもって生きる,生き切る,
仮にかっこ悪くても,無様で,未達のことが山積みでも,
与えられたものを生かし切って,生き切る,
そのおのれを生き切る。
それが,天命ということの意味なのではないか。
むろん,惰性や言訳,があるかもしれない,しかしそれでもなお,そのおのれを生きること,かく生きることが,
生かされてある,
ことへの応答である,と意識する,いや認めることなのではないか。なるかならぬかも,また,
天命,
である。その天命を信じて人事を尽くす,ということではないか。だからこそ,
人生が何をしてくれるかではなく,人生にどう応えるか,
と,V・E・フランクルが言ったのは,その意味でなくてはならない。
虚心坦懐,
とはこういうことなのではないか,と思い始めている。
参考文献;
貝塚茂樹訳注『論語』(中公文庫)
今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
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