偏屈
われながら嫌になる。ときどき,むきになる。むきになると,
一歩も引かなくなる。
議論を交わすというのではなく,押し潰す,という雰囲気になってしまうらしい。自説を引っ込めないというか,
自説を変えない。
そういう悪癖がある。自分でも,その瞬間は,頑迷そのものの(そうでなくても頭が固いのに),
嫌な奴,
になっているのがわかる。目を剥き,梃子でも引かなくなり,(わずかに装っている)柔軟さと温厚さは,影を隠す。ときどき,そういう事態を,自分が引き起こす。瞬間,周囲が引く,というか,呆れたようにひきつった笑いに変わる。それがわかっていて,引くに引けなくなる。
時に,その場を,
凍りつかせる,
ことすらある。それが,後から振り返ると,ずっと落ち込ませる要因で,
しまった,
と臍を噛むが,後の祭り,まさに,
後悔先に立たず,
である。振り返っても,
その時こだわっていたことはわかるが,なぜそれほど拘泥したのかは,よくわからない。
何にこだわるかは,そのときどきで,自分でも分からない。ただ,何かにフックがかかると,
それに執着する,
多くは反論と言うか,異論をとなえるときが多い。あるいは,質問の形で,問い質す。多く,問い質された側が,こちらの向きになりように,反応して,頑なになる。
ちょっと前のことだが,あるワークショップの場で,講師との間でそんなことがあった。はじめは質問のつもりだったが,途中で,問いつめている問いに変わっていたらしい。相手もむきになってきて,会場が凍りついた。
そこをさらりと,ユーモアで交わせたらいいのだが,とつくづく思う。
しかし,自説を翻す気はないので,反省は,
自説をこだわったことではなく,
むきになって言い募ったことで,その場をしらけさせたことの方に向いている。
かつて,知人が,(見るに見かねて)とりなして,代弁を買って出てくれたことがあったが,その人が,僕を上回る屁理屈屋で,却って,その場の雰囲気を悪くしてしまったことがあったが,逆に,そこでフリーになった自分が,
ああ,こういうふうに,この場の雰囲気を壊したのだな,
と思い知らされたことがあった。
ただ思うのだが,御説御もっともと,ただ頷いていればいいのか,と言うと,それはそうは思わない。だから,自説を提起すること自体が悪いとも,それにこだわることがいけないとも,僕は思わない。
自説にこだわりすぎる,と言うのは,
頑迷,
強情,
と言われるかもしれない。もちろん,
這っても黒豆,
というのは論外としても,それぞれの意見は,
自分の頭で考えた以上(自分で考えたことであればあるほど),異説,異論,異見,と言われようと,そうそう軽々に譲れない。譲れないところが問題ではなく,異説同士を戦わせて,
別のひとつにまとめていく,
そういう努力に欠けるところが問題なのだと,思う。
自説は,堂々と言ってもよい。よいが,言うかぎりは,他の意見に耳を傾ける,
柔軟性,
が必要なのだろう。つくづく思うが,
平板で,短兵急な声になる(むきになるとそうなるらしい)と,それだけで人は反発し,拒絶反応を示すらしい。
やはり,ユーモアではないか。
ユーモアは,メタ・ポジションに立たなければ,言語化できない。それは,
余裕,
を生み,声も厚みのある,ゆったりした声になる。
欠けているのは,その姿勢かもしれない。
今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
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