2014年04月19日
グレーゾーン
【第15回 月刊☆西澤ロイ~人生を変えるコトバの宇宙トークライブ】に参加してきた。テーマは,「グレーゾーン」。
https://www.facebook.com/events/241564532694632/
参加しながら,あれこれ頭の中を駆け巡ったことを,書き出してみる。
ウィキペディアでは,
日本語として古くから「白黒つかない」「白黒はっきりさせる」のような慣用句が存在する。 グレーゾーンとは,そんな白でも無い黒でもない曖昧な状態をグレー(灰色)と喩え,どちらとも付かない状態のことを指す。 場合によっては「黒(白)に近いグレー」という言い方もし,通常は白が合法・適切を意味することが多い。
とある。
灰色(gray / grey)は物を燃やした際に出る灰のような色,ということで,色の名は,洋の東西を問わず,自然界から取っている。
たとえば,
藍
青
青竹
茜色
浅葱色
小豆色
亜麻色
と言った具合である。「赤」色には,丹,朱,紅,緋,茜と区別がある。
では,西洋ではと思って,当たると(昔からかどうかは分からないが),
アーモンドグリーン
アイアンブルーJ
アイボリー
アイボリーホワイト
アイボリーブラック
と続く。まあ,色で見る限り,グレーゾーンそのものなのだ。
ただ,グレーゾーンという言葉で,瞬間的に思い浮かんだのは,
墨絵,
いわゆる水墨画である。
「墨」一色で表現される絵画で,墨線だけでなく,墨を面的に使用し,暈かしで濃淡・明暗を表す,
という。灰色といっても,
黒と白の配合の割合の違いで,さまざまな明度を持つ色を作ることができる,
から,グレーゾーンといえども,幅と奥行きがある。
さて,いきなり本題から逸れた。
すべてがグレーゾーン,
というところから話が始まったのだが,まあ,色ひとつとっても,グレーでないものはない。グラデーションには幅がある。たとえば,
われわれの知覚
と
われわれの認識
と
われわれの名づけ
とで考えると,よく言われるように,クオリアレベルでは,
同じ赤と言っていても,見えている色が同じとは限らない,
のだが,それに「赤」と名付けた瞬間から,他と区別される。境界線が引かれる。本来主観的には,
丹,朱,紅,緋,茜…
を見分けていても,「あか」と括ってしまえば,
赤
になる。言語は,基本的に,丸めるためにあるから,区別,というか差異を表現するには,差異は,
丹,朱,紅,緋,茜,
と名付けなくてはならない。あるいは,自分の見つけた色に,別途名づければ,いくらでも,
色名,
はつく。それが,社会的に認知されれば,文化の中に定着する。
藤田嗣治の乳白色
も,名はついたかどうか知らないが,それ自体が,代名詞になる。
僕は思うのが,画家なら,色づけだが,われわれ一人一人が,言ってみると,20万年前のアフリカのミトコンドリア・イブから始まった,
ハーフのハーフのハーフの…
という,いわば
グレーゾーン,
そのものなのだ。ナチスの優生学が噴飯なのも,ヘイトスピーチが滑稽なのも,わずかな,
グラデーション
でしかないところに,無理やり境界線を引こうとするところにある,まあ,
目くそ鼻くそ,
の類なのである。また,話がそれた。
で,たとえば,
白と黒
を便宜的にグラデーションの両対極に置いたとき,しかし,
100%の反射率を持った「理想的な白色」の物体は実在しない,
反射率50%の灰色は,視覚的には黒に近く見える,
と聞くと,すでに,「白」も「黒」と,便宜的に対極に置いたものも,
グラデーションの切り取り方,
次第と知れるのである。
思うのだが,その場でもいったが,実は,
グレーゾーン,
という自己認知があるとき,それは,たとえそれ自体がグラデーションを切り取ったものにしろ,
両極が見えている,
ということなのではないか。たとえば,グレーゾーン=曖昧,と認識しているとしても,
両極が見えているから,そう感じるのだ。問題は,
萌黄色と若草色
という黄緑色の狭い両極なのか,
白と黒
の両極なのかは,その人のものの見方の幅,パースペクティブに圧倒的な差が出る。
何かに偏り始めたら,そのグラデーションの両極を意識すれば,少なくとも,
視野狭窄
に陥ることは避けられるだろう。
今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
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