さげ
予定が詰まっているのに,無理やり,桂扇生独演会,
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に参加し,蒲田から四谷三丁目まで駆け足で駈けつけた。
不思議で,会場へはいった瞬間,すでに第二席が始まっていて,
笑い,
がどっと押し寄せたが,そこからはねつけられた感じがして,話が最初読めないでいたが,
若旦那,
と
幇間,つまり太鼓持ち,
とのやりとりで,鍼を打たせろ,嫌だというやり取りを聞いていて,ようやく,ああ,と思い当たることがあって,話の舞台に入れた。これが初めて聴く噺だったら,もっと入るのが遅れ,じれったかったに違いない。
落語の本題に入る前に,まくらというものがある。
枕とは,枕は,観客を温める,これからする話の前フリをしておくなどの役割を果たす,
と言われるが, 噺家が,まくらから語って,徐々に本編にフェイドインしていくには,それなりの理由があるのだと思うが,僕は,現実の世界,しかもこの世知辛い世の中の時間と空間の感覚の観客に,
物語世界の表紙をめくる,
というか,
くぐり戸を入る,
とというか,
別世界へと誘うには,とくにそれが古典のように,百年も二百年も前の時空へと誘うには,それなりのウォームアップがいる。聴き手の感覚を聴覚に集中させ,まあ,聴き入らせる,というようなことがいるのだろうと,想像している。ちょうど,レム睡眠時,身体と脳のリンクが切られるように,見聞きする感覚が,落語家の声と振る舞いに集中させて,他の感覚を削ぎ落していく作業のように思う。
もっとも,10代目柳家小三治師匠は,(一門の方から聞いたところでは)まくらがやたらと長いそうで,「マクラの小三治」との異名も持つ,と聞く。そういえば,アメリカ体験を語った噺は,まくらそのものの延長版の気がする。
だから,そのまくらを経ないで,いきなりその世界に入ってしまうと,木の根から不思議の国にいきなり落ち込んだアリスのように,ちょっと,こっちの感覚がついていけない。
たまたま,その本編の内容を知っていることで(といっても,そうだろうなという程度の感覚でも),その空気感のようなものがあり,まあ世界へと,もぐりこみやすかっただけだ。
最後の一席をまっとうに聴けたが,初めて聞いたせいで,最後まで演目が分からず,帰ってから調べたら,
三井の大黒
という,三井家に伝わる大黒のいわれを,左甚五郎の逸話として語るものだが,
一種の貴種流離譚,
というか市井に隠れた名人,というような話だ。ところが,坐った席が,悪く,最後を聞き逃した。もともと三井家には,阿波の運慶の恵比寿があり,それの対として,それに匹敵するような大黒像を頼まれたのだが,恵比寿には,運慶の,
商いはぬれてであわのひとつかみ
という句があり,大黒像を三井家の支配人に引き渡す際,それに下の句を,甚五郎がつけた,
○○○…
が,聞えなかったのだ。
もともと,落語は,
最後に「落ち(サゲ)」がつくことをひとつの特徴としてきた経緯があり,「落としばなし」略して「はなし」ともいう,
というほど,枕,本編,オチ,で成り立つ。その最後の詰めの部分を聞き逃したのだから,気になって仕方がない。周りに聞いたが,よく聴き取れていないらしい。で,懇親会で,扇生師匠に直接伺った。
オチはない,
と言われたが,下の句は,
まもらせたたまえふたつかみたち(守らせたまえ二つかみたち),
という,一対で,二摑み(二つ神)を懸けたところで,終えたのだが,ここを聞き逃したのだから,僕は,それを聞くまで,まだあの大工たちと一緒に,江戸の町(の物語)から抜け出せないでいた。
画竜点睛を欠く,
というのはこういう感じかもしれない。
落語は,あくまで聴力を傾けて,それを糸口に,物語世界に入っていく,そのただなかに入っていくと,噺家も噺家の声も,そのリアルの存在を消して,ただ声が物語世界を描写するのを,イメージとして頭に描く。
で,最後,その下げが,
我に返る,
というか,このリアル世界への切符というか,くぐり戸なのだから,それが手に入らないうちは,そのあたりにとどまって,うろうろしていることになる。
確かに,物語は完結したという,
完,
が出ないうちは,フェードアウトできない。それが,
オチ,
や
下げ,
なのだと思う。
今日のアイデア;
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