2014年04月24日
アドラー
アルフレッド・アドラー『個人心理学講義』を読む。
最近,あちこちでアドラーが云々と言われ,読んだかと聞かれる。ずっと,どこかでせせら笑って,スルーしていた。どこかで,僭越ながら,フロイトの幅と深みにかなうはずはないと思っていたからだ。
あまり喧しいので,一応目を通すつもりでWebの紀伊國屋,アマゾンを捜したが,本人の書いた(速記起こしも含め)モノが品切れか,廃刊で,やっと,この本だけが手に入った。入門書や解説書は山のようにあるようだが,そういうのは読む気がしない。生意気だが,他人の目や理解,評価の色眼鏡を通してではなく,自分の目でチャレンジしなくては,話を聞いただけで読んだ気になるのと一緒だ,と思っているところがあるからだ。
そんな経緯で,この本を手にしたが,正直言って,時間を無駄にしたと思っている。少なくとも,この本からは,皆が大騒ぎする理由が皆目読み取れない。頭の悪い僕自身の理解不足を棚に上げて,あえて言い切るが,中井久夫を読んだときの強烈なインパクトやミルトン・エリクソンの衝撃には及びもつかない。
少なくともこの本では,フロイトを批判して別れたが,別の因果論を立ててそれによってものを見ようとしているとしか見えない。フロイトの性欲シフトを批判して,ただ別にフォーカスする色眼鏡を拵えただけだ。今日,フロイトが批判されている因果論を,通俗にしたとしか,頭の悪い僕には受け取れなかった。
たとえば,
サディズムと子どもに対する虐待で告発された男性のケースがある。彼の成長を調べると,いつも彼のことを批判していた支配的な母親がいたことがわかる。それにもかかわらず,彼は学校では優秀で知的なこどもになっていった。しかし,母親は彼の(学校での)成功には満足しなかった。そのため,彼は家族への愛から母親を排除したいと思った。母親には関心を持たず,父親に献身し強く結びついた。
このような子どもが,女性は過酷で酷評するものであり,女性との関わりは,どうしても必要な時でなければ,進んでは持ちたくないと考えるようになったことは理解できる。このようにして,彼は,異性を排除するようになった。その上,不安な時にはいつも興奮するので,このようなタイプの人は,いつも不安を感じずにすむ状況を求めている。後には,自分自身を罰したり拷問を加えたい,あるいは,子どもが拷問されるのを見たいと思うかもしれない。さらには,自分自身や他の人が拷問を加えられるのを想像するのを好むようになるかもしれない。彼は,いま述べたようなタイプなので,このような現実の,あるいは,空想上の拷問の間に,性的な興奮と満足を得るようになるだろう。
この男性のケースは,誤った訓練の結果を示している。彼は自分の習慣との関連を理解していなかったし,もしも理解いたとしても気づいた時には遅すぎたのである。無論,二十五歳や三十歳の人をで適切に訓練することはきわめて困難なことである。適切な時期は,早期の子供時代である。
一読してわかるのは,アドラーの側に人の生き方についての正解がある,と思っているとしか見えないところだ。だから,
子どもの指導に関しては,主たる目的は,有益で健康な目標を具体化することができる適切な共同体感覚を育成することである…。普遍的な劣等感が,適切に活用され,劣等コンプレックス,あるいは,優越コンプレックスを生じないようにするためには,子どもたちを社会の秩序に調和するように訓練することによってしかない。
時代の制約があるにしても,今日の社会構成主義とは,ちょっと異質な考え方といっていい。この背景にあるのは,アドラー独自の劣等感についての考えがある。
優越性と劣等性に結びついたコンプレックスという言葉は,劣等感と優越感の追求の過度な状態に他ならないということを忘れてはならない。そのように見ていくと,二つの矛盾した傾向,即ち,劣等コンプレックスと優越コンプレックスが同じ個人の中に存在するという見かけ上のパラドックスを回避することができる。というのは,優越性の追求と劣等感は,普通の感情として,当然のことながら,相補的なものであることは明らかだからである。もしも現在の状態に,何らかの欠如を感じないのであれば,優越し成功することを求めるはずはない。
劣等感は病気ではない。むしろ,健康で正常な努力と成長への刺激である。無能感が個人を圧倒し,有益な活動を刺激するどころか,人を落ち込ませ,成長できないようにするとき初めて,劣等感は病的な状態となるのである。優越コンプレックスは,劣等コンプレックスを持った人が,困難から遁れる方法として使う方法の一つである。そのような人は,自分が実際には優れていないのに,優れているふりをする。そして,この偽りの成功が,耐えることのできない劣等である状態を補填する。普通の人は優越コンプレックスを持っていない。優越感すら持たない。われわれは,皆成功しようという野心を持っているという意味で優越性を追求する。しかし,このような努力が仕事の中に表現されている限り,精神病の根源にある誤った価値観へと導くことにはならない。
だから,
劣等コンプレックスを見出すケースにおいて,優越コンプレックスが,多かれ少なかれ,隠されているのを見出したとしても驚くにはあたらない。
社会適応は,劣等感と優越感の追求の社会的な結果から引き起こされている。劣等コンプレックスと優越コンプレックスという言葉は,不適応が生じた後の結果を表している。これらのコンプレックスは,胚珠の中にも血流の中にもない。ただ,個人と,その社会環境の間の相互作用のなかでのみ起こるものである。なぜあらゆる人にコンプレックスが起こらないのであろう。すべての人は劣等感を持ち,成功と優越性を追求する。このことがまさに精神生活を構成する。しかし,あらゆる人がコンプレックスを持っていないのは,劣等感と優越感が共同体感覚,,勇気,そしてコンプレックスの論理によって,社会的に有用なものになるよう利用されているからである。
いまひとつ前述の引用からみられる,アドラーの特徴は,原型とライフスタイルである。
原型,即ち,目標を具体的なものにする初期のパーソナリティが形成されるとき,(目標に向かう)方向線が確立され,個人ははっきりと方向づけられる。まさにこの事実によって,後の人生で何が起こるかを予言できるのである。個人の統覚は,それ以後,必ずこの方向線によって確立された型にはまっていくことになる。子どもは,任意の状況をあるがままに見ようとはせず,個人的な統覚の枠組みに従って見る。状況を自分自身への関心という先入観にもとづいてみるのである。
そして,
原型がまさしく現れるのは,困難な,あるいは新しい状況においてである。
われわれは,ある環境の条件の下で,ライフスタイルを見る。(中略)好ましくない,あるいは,困難な状況に置かれたら,誰の目にもその人のライフスタイルは明らかになる。……ライフスタイルは,幼い頃の困難と目標追求から育ってきたものなので,統一されたものである。
例として,ある男性(三十歳)のケースを挙げている。
彼は,いつも最後の最後になって,人生の課題の解決から逃れている。彼には友人がいたのだが,その友人のことを強く疑っていたので,その結果,この友情はうまくいかなかった。友情は,このような条件の下では育たない。なぜなら,このような関係においては,相手が緊張するからである。言葉を交わすくらいの友人はたくさんたにもかかわらず,本当の友人がいなかったのは容易に想像がつく。(中略)
その上,彼は内気だった。赤い顔をしており,話す時には時々いっそう赤くなる時があった。この内気さを克服できれば,よく話せるようになるだろうと考えていた。……このような状態のときには,人にいい印象を与えることができなかったので,知人の間で好かれることはなかった。彼はこのことを感じており,結果としてますます話すのが嫌いになった。彼のライフスタイルは,他の人に近づくと自分自身にだけ注意を向けるというものであるといえよう。
で,アドラーは,こう診断する。
劣等感を減じることである。劣等感をすっかり取り除くことできない。実際私たちはそうすることを望んではいない。なぜなら,劣等感は,パーソナリティ形成の有用な基礎となるからである。しなければならないことは目標を変えることである。…ケース…の目標は,他の人が自分より愛されるということを理由に逃避するというものである…。私たちが取り組まなければならないのは,このような考えである。
アドラーは,自分の心理学を個人心理学と名付けたが,それは,
個人の生を全体としてみようとし,単一の反応,運動,刺激のそれぞれを,個人の生に対する態度の明確に表された部分とみなしている。
重要なことは,行為の個々の文脈,,即ち,個人の人生におけるあらゆる行為と動きの方向を示す目標を理解することである。この目標をみれば,様々なばらばらな行為の背後にある隠された意味を理解することができる。それらは全体の部分として見ることができる。逆に,部分を考察する時,それを全体の部分として考察すれば,全体についてよりよく理解することができる…。
精神の運動は器官の運動に似ている。どの心のうちにも現在の状況を超えていき,将来に対する具体的な夢を仮定することで,現在の欠陥と困難を克服しようとする目標,あるいは理想という概念がある。この具体的な目的,あるいは,目標によって,人は自分が現在の困難に打ち勝っていると考えたり感じることができる。将来,成功すると心のうちで考えているからである。この目標という観念がなければ,個人の活動はどんな意味も持たなくなる…。
この目標を定め,それに具体的な形を与えることは,人生の早期,即ち,子ども時代の形成期の間に起こる…。成熟したパーソナリティの一種の原型,あるいは,モデルが,この時期に発達しはじめる…。
たぶん,このあたりの考え方が,アドラー信者の魅力の根拠なのだろうとは推測がつくが,僕には,「…で,それがどうした?」という感覚で,スルーしがちだ。まあ,権力というか,成功志向の人にとって意味のある言葉なのだとは思うが,僕には…。
で,個人心理学が目指すのは,
「社会」適応である,
とアドラーへは言い切る。それが,目的である。それが,すでに社会構成主義とは相いれない。正解がありき,だからである。
個人は,ただ社会的な文脈の中においてだけ,個人となる。
誤った原型を持った少年が,後の人生,例えば,十七歳か十八歳という成熟しかけている年齢になったときどうなるか…。
社会適応の欠如は,原型において始まっている…。
どんな思想家も,おのれの中に,一般化原則を見つけ,それを一般化する。フロイトにもそれがある。だから,同意できるところがなくもない。しかし,どんな生き方が,有用で,無用なのかを,切り分けられる思想を,僕は好まない。それは,俺の勝手だからだ。
どこに正解がある,という思想は,現代にはなじまい,改めてそう確信した。
まあ,僕ひとりの妄想かもしれないが…!
参考文献;
アルフレッド・アドラー『個人心理学講義』(アルテ)
今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
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Posted by タイトリスト714 CB at 2014年04月24日 12:46
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