2014年04月27日
戦国大名
黒田基樹『戦国大名』を読む。
昨今の研究の蓄積で,
戦国大名と織豊大名・近世大名とは,領域権力ということで,基本的な性格を同じくし,社会状況の変化に応じて,その様相を変化させていった…,
と捉える見方が有力になっているとし,
中世と近世を分かつキーワードとなっていた,「太閤検地」「兵農分離」「石高制」などの問題は,実は研究の世界だけにおける,ある種の幻想であったことがはっきりしてきている…,
ということから,改めて,
戦後大名は総体として,どのような存在で,どのう特質をもつものと考えらるのか。
を示したのが本書ということになる。
相模の北条氏,甲斐の武田氏,駿河の今川氏,越後の上杉氏,安芸の毛利氏,豊後の大友氏,薩摩の島津氏等々が,代表的な戦国大名だが,
大名家当主を頂点に,その家族,家臣などの構成員を含めた組織であり,いわば経営体ととらえるのが適当,
と著者は定義する。
一定地域を支配する,領域権力を持ち,支配が及ぶ地域が面的に展開し,「国」と称され,戦国大名が支配する領域を領国と呼んでいる。それは,
線引きできるような,いわゆる国境で囲われた面として存在していた。その領国では,戦国大名が最高権力者として存在した。領国は,他者の支配権が一切及ばない,排他的・一円的なものであった。そこには天皇や室町幕府将軍の支配も及ばなかった。
だから,「国家」と称されていたのである。その権力構造は,
支配基盤としての「村」と,権力基盤としての「家中」の存在に特質付けられ,…その構造とは,領国支配を主導し,「家中」に対し主人として存在する大名家当主とそれを支える執行部,それらの指揮をうけ奉公する「家中」,両者かに支配を受ける「村」の三者関係,
となっている。羽柴秀吉が,
給人(家来)も百姓も成り立ち候様に,
といったように,戦国大名の権力が成り立つには,
軍事・行政の実務を行う家来と,納税する村の両方が,それらの負担が可能な程度に存続していることが前提になっていたのである。
したがって村に対して,一方的な収奪を行うということはありえないことになる。村々を潰せば,大名の存立基盤そのものが危機に陥る。戦国大名の支配基盤は,
政治団体としての「村」にあった。村が当時における社会主体であり,大名への納税主体であったことによる。村は一定領域を占有し(村領域),そこから得られる,用水や燃料などの資源をもとに,生産・生活を行っていた。時に,それらの生産資源をめぐって,隣接する村との間で,武力を用いて激しい紛争を行うこともあり,まさに「政治団体」として存在していた。その村の構成員が百姓であった。…戦国大名の支配基盤は,個々の百姓家ではなく,それらを構成員とした政治団体である村であった,
と捉えられる,としている。そして,戦国大名同士の,存亡をかけた戦争になると,
例えば北条氏では,永禄十二年(1569)からの武田氏との戦争のなかで,村に対し,奉公すべき対象として「御国(おくに)」をあげるようになり,「御国」のためになることは,村自身のためでもある,あるいはそうした奉公は「御国」にいる者の務めである,
と主張するようになる。だから著者は,
こうした戦国大名と村との関係は,現代の私たちが認識する国民国家と国民との関係に相似するところがある。このことから戦国大名の国家は,いわば現在に連なる領域国家の起源に当たる,
と指摘している。思えば,
http://ppnetwork.seesaa.net/article/390004444.html?1393535997
にあるように,信長の全国制覇は,分国支配の延長線上にある。
そう考えると,,戦国大名の家臣団構造,税制,流通政策,行政機構などを分析したうえで,戦国大名と織豊・近世大名の画期とされた,
兵農分離,太閤検地,石高制,楽市・楽座,貨幣政策
等々は両者の異質さよりは,両者の連続性に目を向けるべきだと主張するのはよくわかる。
ただである,確かに,領域権力としてはそうだろうが,各戦国大名レベルで見ると,
豊臣政権に服属した時点で,戦国大名ではなくなり,豊臣大名と定義される。戦国大名は「惣国」における最高支配権者という存在ではあったが,豊臣政権に服属したことによって,自力救済機能が抑制されるからである。
もちろん領国内の支配は独立的に展開できるし,豊臣政権から領国内の民衆に対して公事賦課があるわけではない。しかし,江戸時代の学者・萩生徂徠が「武士を鉢植えにする」と云い方をしたように,豊臣政権は,専制的に,大名を移封・転封させることができた。いわゆる「鉢植え大名」である。
その意味では,戦国大名は,天下が統一されて以降,独自に兵を動かすことも,陳情することもできなくなっており,豊臣政権,徳川幕府下では,戦国大名は,明らかに自律性,支配権限が制約されていることは間違いない。
かつて,戦国大名に服属した大小名が,領国としては独立していながら,戦国大名の支配下にあった「国衆」と言われた存在と,戦国大名自身が同じになったといっていい。
参考文献;
黒田基樹『戦国大名』(平凡社新書)
今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
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