復活


三池純正『九州戦国史と立花宗茂』を読む。

凋落する大友宗麟の旗下で,島津,毛利,竜造寺と戦い続け,秀吉の力で,大友家の面目を保った後,秀吉による九州再編の中で,立花宗茂は,大友配下から,初めて,秀吉直属の,柳川九万石大名に取り立てられる。

著者は,奥州盛岡城の南部盛直の言葉を引用して,

上方では奉公をよくする者は,たとえ小者でもサムライに取り立てられるため,誰もが我劣らじと奉公に励んでいる。それが秀吉の軍隊のからくりに違いない,

という。それは,新たに取り立てた大名に対する天下人の意図を言い当てていて,

秀吉は中世名主たちを小者から侍へ,そして大名へと取り立てていったが,それはそのまま「唐入り」という大陸侵略への道と結びつく「からくり」であった,

という。

しかし,考えてみれば,これは秀吉の旧主織田信長のやり方そのものではないか。秀吉自身が,卑賤の身から,大名へと取り立てられたし,信長旗下には,そうして取り立てられた者たちが,競って先陣を争い,関東へ,中国へ,四国へと,怒涛のように進出していった「からくり」でもあった。

だから,旧臣であっても,その働きが悪ければ,佐久間信盛,林通勝のように追放される憂き目にあう。それが他の者に,「我劣らじと」働かせる原動力にもなる。

ある意味そういう人材の登用と使い捨ても,秀吉は信長から学んだのではないか。

さて,そうして見込まれた宗茂は,大陸侵略の前線を担わせる目的があったということになる。

では秀吉のもくろみは何か。こういう説を紹介する。

(全国)統一の過程でみずからを朝廷権力のなかに位置づけた秀吉は,朝権の及ぶ範囲を拡充する方途をとって政権のフロンティアを拡大し,大陸侵攻と国内統一は朝権の拡大として並行的に進められた。

秀吉は後陽成天皇を北京に移し,養子の秀次を中国の関白にし,天皇家や公家に北京周辺の百カ国を与えるとし,従来の冊封という中国への朝貢を前提とした外交関係から,秀吉か覇権を拡大して東アジアの頂点に立とうとした。

事実秀吉は,現在のフィリピンに使者を派遣して服属を要求し,拒否すれば派兵するとまで言っている。これはかつて鎌倉時代にモンゴルが日本に伝えてきた内容と同じで,秀吉自身が東アジアの頂点に立とうとしていたことがうかがえる。

そんな中で,宗茂も二度にわたり朝鮮出兵の先兵として,文禄には,軍役として,戦闘員,水主,水夫,職人,雑役人夫を含めて,二千五百人を率いて渡鮮,慶長には五千人を率いて,まさに先兵役をはたした。

その後,秀吉後の政権交代期,宗茂は,関ヶ原の合戦では,小早川,島津とともに,西軍についたものの,本戦の関ヶ原に間に合わず,手前の大津城攻城に足止めされたまま敗戦に立ち至る。結果として,改易となり,流浪することになる。

この間,家臣に支えられ,あるいは加藤清正の厚誼に与りつつ,家康,秀忠との交渉を粘り強く続ける。そして六年後,一万石を持って,秀忠に召しだされる。宗茂四十歳。

その後秀忠に近侍しつつ,江戸御留守番となり,四年後三万石に加増となり,御咄衆を経て,柳川藩主田中家の改易を機に,奇跡的に,旧柳川領十一万石の大名に返り咲く。宗茂五十四歳である。

家臣宛に,

我ら事,柳川・三潴郡・山門郡・三池郡拝領致し,まかり下り候,本領と申し過分の御知行下され,外聞実儀これに過ぎず候,

と喜びを伝えている。

豊臣も滅んで元和偃武以降,もはや武功でおのれを誇示できない時代,武で名を成した宗茂が,文で権力者にすり寄る様子は,何かちょっと哀れに見えるが,本人は必死であろう。

御咄衆というのは,宗茂のほか,丹羽長重,細川興元,佐久間安政で,四人ずつ二組に分かれて,隔日に秀忠御前に伺候する。宗茂が選ばれたのは,

宗茂公は生得の気風正直を宗として,時めく人に諂い給うこともなく,武家の古風を失い給わざれば,

という。事実,この席で,

大津城攻めの時は,まず大津城を攻め崩し,東国大名たちの首を一つ一つ取る覚悟であった,

と,そのときの大津城主京極家のものがいても,豪胆に話したと,話題になっている。

しかし,そんな話をせざるを得ない宗茂の胸のうちは,本音のところどうだったのか,と思う。わずかの戦いの帰趨次第で,この立場は逆転していたかもしれない。

武門というものが生き残るのは,結局「武」ではなく,「略」の時代になっていたということのあかしであり,そうして復活した立花宗茂は,そういう時代のひとつの象徴なのかもしれない。



参考文献;
三池純正『九州戦国史と立花宗茂』(歴史新書y)



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