2014年04月30日
文体
古井由吉『鐘の渡り』を読む。
文章と文体は違う。古井由吉の文章は,文体としか言いようはない。今日の作家で,文体と呼べる文章を書くものは,大江健三郎と古井由吉しかいない。後の作家は,なべて,ただの物書きに過ぎない。
つくづく,またそう実感した。
文体とは,(日本語で言うなら)他国語に翻訳不能な文章といっていい。意味は伝わっても,それは,もはや文章でしかない。そこに,その作家の日本語がある。
まったく久しぶりに古井由吉を読んだ。もう,ん十年まえに,古井由吉論をまとめた。
http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic1-1.htm#%E8%AA%9E%E3%82%8A%E3%81%AE%E3%83%91%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%83%9A%E3%82%AF%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%96
たぶん,そこですべてを言い尽くしたと,勘違いしていた。そこでは,古井由吉の作品の構造分析をしたつもりであった。しかし,久しぶりに最新作を読んでみて,気づいたことがある。
夢と現の境目,
が彼の描いてきた世界だということに,改めて,というかいまさらながら,何か大事なことを見落としていたような,忘れ物をしたような感覚に,気づいた。
原っぱにいたよ、風に吹かれていた、年甲斐もない、と友人はおかしそうに言う。見渡すかぎり、膝ほどの高さの草が繁り、交互に長いうねりを打っていた。風下へ向って友人はゆっくり歩いていた。夜だった。いや、夜ではなく、日没の始まる時刻で、低く覆う暗雲に紫色の熱がこもり、天と地の間には蒼白い沼のような明るさしか漂っていないのに、手の甲がうっすらと赤く染まり、血管を太く浮き立たせていた。凶器、のようなものを死物狂いに握りしめていた感触が、ゆるく開いて脇へ垂らした右の掌のこわばりに残っていた。いましがた草の中へふと投げ棄てたのを境に、すべてが静かになった。
雨はまだ落ちていなかったが,服は内側からしっとり濡れていた。地面は空よりも暗く,草の下に転がる得体のしれぬ物がたえず足に触れたが,足はもう躓きも立ち止まりもせず,陰気な感触を無造作に踏みしめて乗り越えていく。そのたびに身体が重くなる。しかし風が背後でふくらんで、衰えかけてもうひと息ふくらむとき、草は手前から順々に伏しながら白く光り、身体も白く透けて、無数の草となって流れ出し、もう親もなく子もなく、人もなく我もなく、はるばるとひろがって野をわたって行きかける。野狐が人間の姿を棄て、人間の思いを棄て、草の中に躍りこむのも、こんなものなのだろうか、とそんなことを友人は考えたという(「哀原」)
これは,僕の好きな作品の書き出しだ。このまま七日間失踪する。あるいは,
それは木目だった。山の風雨に曝されて灰色になった板戸の木目だった。私はその戸をいましがた、まだ朝日の届かない森の中で閉じたところだった。そして、なぜかそれをまじまじと眺めている。と、木目が動きはじめた。木質の中に固く封じこめられて、もう生命のなごりもない乾からびた節の中から、奇妙なリズムにのって、ふくよかな木目がつぎつぎと生まれてくる。数かぎりない同心円が若々しくひしめきあって輪をひろげ、やがて成長しきると、うっとりと身をくねらせて板戸の表面を流れ、見つめる私の目を眠気の中に誘いこんだ。ところがそのうちに無数の木目のひとつがふと細かく波立つと,後からつづく木目たちがつきつぎに躓いて波立ち,波頭に波頭が重なりあい,全体がひとつのうねりとなって段々に傾き,やがて不気味な触手のように板戸の中をくねり上がり,柔らかな木質をぎりぎりと締めつけた。錆びついた釘が木質の中から浮き上がりそうだった。板戸がまだ板戸の姿を保っていることが,ほとんど奇跡のように思えた。四方からがっしりとはめこまれた木枠の中で,いまや木目たちはたがいに息をひそめあい,微妙な均衡を保っていた。密集をようやく抜けて,いよいよのびのびと流れひろがろうとして動かなくなった木目たちがある。密集の真只中で苦しげにたわんだまま,そのまま封じこめられた木目たちがある。しかし節の中心からは、新しい木目がつぎつぎに生まれ出てくる。何という苦しみだろう。その時、板戸の一隅でひとすじのかすかな罅がふと眠りから爽やかに覚めた赤児の眼のように生まれて,恐ろしい密集のほうへ伸びてゆくのを,私は見た。永遠の苦しみの真只中へ,身のほど知らぬ無邪気な侵入だった。しかしよく見ると,その先端は針のように鋭く,蛇の舌のように割れてわずかに密集の中へ喰いこみ、そのまま永遠に向かって息をこらしている……。私も白い便箋の前で長い間、息をこらしていた。(「木曜日に」)
これは処女作である。このころから,この現と夢,幻想と現の境を描ききっている。
日常の中の,こんな夢と現の境が,底流するテーマなのだ。そんな危うさを,本短編集にもずっと通奏低音のように響く。それは,ほんのわずかなずれから始まる。
梅雨時の夜の更けかかる頃に,同年の旧友と待ち合わせた酒場へだいぶ遅れて急ぐ途中,表通りから裏路へ入って三つ目の角を見込むあたりで,蒼い靄のまつわりつく街灯の下に立ちつくす半白の男がいる。近づけばその友人で,やがて私の顔を認めて目を瞠ったなり,妙にゆっくりと手招きして,地獄に仏とはこのことだ,と取りとめもなく笑い出した。
また何の冗談だとたずねると,道に迷ったと言う。知った足に任せて歩くうちに路の雰囲気がどうも違うようなので,さては角をひとつはずしたかと見当をつけなおして,しばらく行くと見覚えももどったようで,ようやく店までまっすぐのところまで来たかと思ったら,初めの角にいる,三度まわって三度同じところに出た時には小便洩らしそうになった,ワタシハイマ,ドコデスカと泣き出さんばかりだった,と笑いづけた。
あんた,もう何年,あの店に通っているんだ,と呆れて顔をあらためて見れば,手放しで笑いながらも憔悴の影がある。(「明日の空」)
僅かなずれに,足を取られれば,そのまま失踪ということもある。そんな危うさが,さりげない日常に口をあけている。見ないつもりなら見ないですむ。しかし,いったん見てしまうと,目がそらせなくなる。
母親は壁ぎわにしゃがみこんで泣き出した時にはまだ,ただもう途方に暮れきっていた,とやがて思った。泣くだけ泣けば心が空になり,子たちの手を引いて長い階段を降り,夜更けの街をあてどもなくさまよった末に,気を取り留めて,先の望みもない日々の苦にもどっていたかもしれない。しかし女の子におずおずと顔をのぞきこまれて,どうして泣いているのとたずねられた時,子たちへの不愍さのあまり,母親の心は一度に振れた。
切符をなくしてかなしくて,という言葉を女の子は,いましがた切符を出して改札口を通り抜けたのを見ているので,まだ分別の外ながら,引き返しのきかぬ声と聞いた。立ちあがると母親の面相は一変していた。
最短区間の切符を買いなおして連絡通路をまっすぐに行く母親の,周囲からきっぱりと切り離された後姿が見える。女の子はその脇で,力を貸すようにひたりと寄り添い,乱れもない足を運んでいる。母親の鬼気は吸いこまれるままになったか。もう片側に男の子は手を引かれて,遅れがちの短い足をちょこちょこと送っている。ときどき,脇見をしている。
人は追い詰められて,姿ばかりになることがある。外からそう見えるだけでなく,内からしてそうなるようだ,と二十歳ばかりの男がそんなことを思ったものだ。若年の間にいっとき挿まる,老いのような境だったからか。(「地蔵丸」)
母子心中を,そう想像しているのである。その一瞬,二十歳の若者も,現と夢の境にいる。
この短編集の中では,表題にもなっている,「鐘の渡り」と「八ツ山」がいい。
「鐘の渡り」は,最近では珍しく,三十代の男の話だが,『杳子』に比べると,淡泊だが,捨てがたい魅力がある。
……暮れた道を走ったこともあるけれど,人の道は夜目にもかすかに光ったものだと話を逸らすと,人のからだには燐がふくまれているからな,息に吐いて,汗に滲んで,道にこぼして行くんだ,と朝倉は答えて,
――ひとりきりになって考え込む人間も,雨の暮れ方などには部屋の内に居ながらうっすらと光る。境を越えかけたのを悟った病人を見たことがあるか。
そう言ってこちらへ向き直った。そのとたんにあたりの林が一斉に燃えあがり,頭上には雨霧が立ちこめているのに西のほうの空の一郭で雲が割れたらしく,斜めに射しこむ陽の光を受けて木々の枯葉が狂ったように輝きながら,八方でまっすぐに揺らぎもせずに降りかかり,足もとの朽葉も照るようで,朝倉の顔も紅く染まり,それでいていきなり闇につつまれて遠い火をのぞくような眼を瞠った。ほんのわずかな,十と数えぬ間のことで,あたりが雨もよいの暗さにもどると,見たか,と朝倉は言って,何をと問い返す閑もあたえず,背を向けて歩き出した。
追って雨が降りかかってきた。(「鐘の渡り」)
参考文献;
古井由吉『鐘の渡り』(新潮社)
今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
この記事へのコメント
www.linazargar.com 次元を超えた性能。ドライバーに求められるすべてを追及して誕生したタイトリスト913ドライバー。
Posted by 913 D3 ドライバー at 2014年04月30日 12:47
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