愛用品
最近,ん十年愛用の,誰にもらったかも忘れた大理石の文鎮を落として割ってしまった。このところ似たようなことが続いていて,ちょっと気になる。
愛用するということは,日々手になじみ,そこにあることになじんでいて,一見風景になっているが,それが無くなると,風景の一か所に欠落が出る。それによって,なんとなく,違和感がある。
物にこだわる質でもないし,収集癖もない。
収集癖という以上,件の漫画家ではないが,徹底しなくてはならない。しかし,そこまで固執する物に出くわしたことがない。中途半端だから,かえって,未練が残るのかもしれない。そこに,なまじの思いや感情を投影しすぎる。それは,玩びつくしていないから,なのかもしれない。
玩物喪志
という言葉がある。
無用なものを過度に愛玩して,本来の志を見失ってしまう,という意味らしい。意で、
物を玩べば志を喪う,
『書経』旅獒の出典らしく,
人を玩べば徳を喪い,物を玩べば志を喪う
とある。この場合の物は,必ずしも,いわゆる物,
物品,物体,
を指すとは限らない。これを言った,召公が,武王を諌めたのは,武王が,献上された獒(ごう)という一頭の大きな犬に心を奪われて,政治が荒んだことを指している。物は,
天地間に存在する,有形・無形のものすべて,
を,本来指しているようだから,幅広い。ストーカーも,温泉マニアも,何たらフェチも,鉄男も,撮鉄も,博打狂いも,酒も,煙草も,麻薬も,主義主張も,信仰も,殉死も,珈琲も,すべて,
玩物喪志,
である。ところが,である。武田泰淳は,川端康成論の中で,「普通は悪い意味に使用されているが,ここでは,対象を手ばなさずに,専心している姿勢の意味である」が,と言いつつ,
志をうしなうほど物にが玩べれば,本望である。その物が,風景であろうと,女体であろうと,主義であろうと,そこに新しい魅惑が発見できるまで執着しつづけねば,何物も生まれはしない。玩物喪志の志,あるいは覚悟を持ちつづける作家は,そう数多くはないのである。
と書いているのに出くわした。ネットを調べているうちに,泰淳にであい,この小論に出会い,僕の玩物喪志のひとつ,全集買いが,ここで生きた。
玩物自体が「志」とは,逆転の発想である。そうか,
覚悟の問題
なのか。武王が,犬に執心なら,王位を捨てなくてはならない。その覚悟がなくてはならない。エドワード8世が,王位を擲って,恋に賭けたように。そのとき,恋は,王位と匹敵した。
織田信長が天下を玩物したときは,天下は,近畿をさす,それは三好三人衆にとっても,玩物であった。しかし,その「物」が全国になったとき,玩物自体が,「志」になる。そう意味だろうか。
さらに,泰淳は,川端康成にこう告げている。
玩物喪志の「物」の内容を変更しただけでは解決はつくまい。「物」のひろさと新しさが,「玩」の深さと新しさと密着して,深くひろく新しい魅惑を生み出さねばならない。
玩物の,
「物」のスケールも,
「玩」のスケールも,
気宇壮大ならば,もはや,召公のスケールを超える。はて,では,翻って,おのれは如何?
ただ横道にそれ,油を売っているのとは違う。たしかに,人生には,
何かを計画している時に起こってしまう別の出来事,
の面がある。しかしそれを言い訳にすれば,道草で良しとなる。しかし,こうある。
予期せぬ出来事の中で全身全霊を尽くしている時,予期せぬ世界が開けてくる。
つまり,玩物であろうと,道草であろうと,そこに全身で打ちこまなければ,
玩物が志となり代わる,
ということはない。結局,
覚悟,
はいずれも必要なのだ。覚悟とは,
迷いを取り去る,
ことに尽きる。でなければ,喪われた「志」が泣く。
参考文献;
武田泰淳「玩物喪志の志」(武田泰淳全集第12巻 筑摩書房)
龍村仁『ガイアシンフォニー第三番』
今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
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