無様
セッションの中で,進退窮まるほどの窮地に追い込まれたとき,あるいはしくじってとことん落ち込んだとき,そういう自分をどう名づけているか,と問われた。
意味が分からず,
オレはあかんな,
とか,
やっぱりだめ,
とか言っていたが,それにどう名づけているか,と重ねて問われて,ふと思いついて,
二流である,
といった。正確には,自分の定義では,
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/view03.htm
http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163461.html
で触れたように,三流というのが正確かも…。因みに,
「三流の人」とは,それがもっている新しさを,「二流の人」の現実化の努力の後知り,それをまねて,使いこなしていく人である。「使いこなし」は,一種の習熟であるが,そのことを,単に「まね」(したこと)の自己化(換骨奪胎)にすぎないことを十分自覚できている人,
である。まあ一流,二流をの背中を追いつつ,おのれの力量と才能のレベルを承知している人のはずである。だから,もっと正確には,それより下,
三流以下,
ということかもしれない。
で,その自分を受け入れることが,というか,それから目をそらさないこと,
なりたい自分になる
ことにつながる,ということらしい。そういう自分を抱え込む。そこに,地に足をつけるところから出発のしようはないので,それを忘れて背伸びしても,無理ということになる。これを言うなら,あるいは,
ざまあ,ねえなあ,
というおのれでおのれをあざけるその自分の,
無様(不様)
を受け止めるということになるのかもしれない。無様は,
無+様
で,
様にならない,
ということだ。様とは,法(のり),手本(法式),鋳型,という意味だから,
生き様
死に様
の様でもある。
どうあがいても,形にも型にもならないということになる。だから,
体裁が悪い,
みっともない,
につながる。あるいは,
格好がつかない,
という方が正確かもしれない。ときに舞い上がって,等身大のおのれに戻れなくなる自惚れを,ただ戒めるという意味だけではない。そういうおのれをも是としていい,ということなのではあるまいか。
そんな,こんな,おのれのかっこわるさをあれこれ思っていたせいか,ぼんやりといろいろ考えていたら,過去の一杯の失敗が,恥ずかしい行為が,迷惑をかけた振る舞いが怒涛のように,大挙して押し寄せて,押し潰されそうになった。そんなことを数え上げれば,きりはない。思わず冷や汗,脂汗がでる。確かに,やっぱり,
三流以下
には違いない。
しかし,その中から,ふいに,こんな怠け者が,
ここまでなんとかかんとか生きのびたきた,
ということに思い至る。いやいや,それどころか,いろんな人の手を借りたことが思い出されてくる。二進も三進もいかなくなる,いわゆる,
進退両難
のときに,不思議と,やってみたこともないことをやらないかと,声を掛けられたり,以前の出版物のつてから,手を差し伸べられたり,とずいぶん助けられてきたことを思い出す。ひょっとすると失敗を上回ったから,赤字決算ではなくすんでいるのかもしれない。
まあ,まんざらダメダメ尽くし,
ばかりでもない。そう思うのだ。
それがなければとうに野垂れ死にしているところだろう。
受け入れる,というなら,こういうことも,その一つなのだろう。
今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
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