2014年05月12日
物語る
ブリーフ・セラピー研究会の「『ナラティヴ・アプローチ入門』PART2(立正大学教授 安達映子先生)」に参加してきた。今回は,三回にわたっての連続ワークショップの第一回目は,「外在化」。
PART1については,
外在化について,
http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163526.html
と,ナラティブ・セラピーの考え方について,
http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163523.html
で触れた。
今回改めて,外在化を実践することを通して,初めて,外在化が,単なる問題の外在化によって,問題を自分の外に出して,それとの距離を取ることで,対処法が見える,というスキルチックな短絡的な理解を改めるに至った。
ナラティヴの面接では,(M・ホワイトの考え方では)
人々が豊かに現実を語る,(セラピストはクライエントが)厚い記述をするパートナーになる,
ゴール(設定)はない(何かを目指し,それをするために…という面接はない),
何かを話すことを通して,選択肢を増やす会話をしていく,
人生のストーリーを増やす
クライエントが話したいことが話せたかどうか,
セラピストは探検家である,
等々と言ったことを,講師は折に振れて繰り返した。ここにナラティヴ・セラピーの神髄があるのではないか。あくまで,僕の受け止め方たが,外在化もそのためにある,と。
たとえば,
「コミュニケーション不足で,就活が上手くいかない」
という訴えがあった時,こちらの通念(あるいは社会規範)から,
確かにコミュニケーションが下手だと,何についてもうまくいかないな,
と,クライエントの話にのってしまうことを指す。そこには,
コミュニケーションはうまくなくてはいけない,
コミュニケーションが下手だと世渡りにハンディだ,
という社会的規範に乗っかって,相手の話を聞いている,ということになる。ここで問われているのは,
セラピストが,どこまでそういう社会的通念や規範に対して,メタ・ポジションが取れるか,
と同時に,
セラピスト自身の中の,そういう社会的規範をよしとする考え方がないか,という批判的見方が持てるかどうか,
である。もちろん,正しいか間違っているかではない。クライエントが,
幅広い選択肢を取れるようにする,
そのために,セラピスト自身が,自由な視点を持てなくてはならない。もともと,
コミュニケーションが上手くないといけない,
という社会規範があるから,クライエントは悩むのである。つまり,
悩みはコンテクストがあって,悩みたらしめる。その背景を,
荷解き
することが,選択肢を広げ,ストーリーを広げ,厚くするのに欠かせないのである。
コミュニケーションが下手→就活がうまくいかない→コミュニケーションがうまくなりたい
というストーリーを,
薄い記述,
という。では,それを,
厚い記述,
にするにはどうすればいいか。それを,
多声性(ポリフォニー),
と呼ぶ。例えば,「コミュニケーションが下手」を,
コミュニケーションって,何?
コミュニケーションとは具体的に何を指すのか,
コミュニケーションが下手というのはどういうことを言っているのか,
コミュニケーションが上手いというのは,どういう状態を指しているのか,
等々。これって,コーチングやカウンセリングで,コーチやカウンセリングが,
分かったつもりにならない,
ということと同じことだ。わかったつもりになることで,「コミュニケーションが下手」は,多々薄っぺらな語りのまま,スルーされる。そこに,実は,
コミュニケーションに対する本人の思い,
コミュニケーションする時に感じている本人の感情,
コミュニケーションに対する過去の蹉跌,
コミュニケーションに対する価値観,
等々,その本人も忘れているような,あらたなストーリーが,生まれてくる。その語られる新しい物語は,本人の,
人生物語,
を多様にし,幅と奥行きを広げていくはずである。それが,その人の思っている自分を変えていく可能性がある。
そのパースペクティブの中で,外在化を考えるなら,
本人に埋め込まれた問題を本人から切り離して対象化する,
ことの意味は,
問題に悩まされているというストーリー
からクライエントを掘り出し,自分の外に問題を眺めることで,
問題の多様な面を眺めて別の自分というストーリー
を紡ぎ出す,と言ってもいい。だから,ある面で,
その問題は,社会的な文脈におき直すことで,
あなたの問題ではなく,
社会の問題でもある,
という視点を手に入れられるかもしれない。それは,もちろん,免責を意味しない。問題と本人の間に,
スペース
を取ることで,問題との距離がもて,
問題の影響
明らかにできれば,では自分はどうしたらいいかを,考えることができる。これは,神田橋條治さんが,
二者関係から三者(項)関係
と表現したのと似ている。
クライエントの中から,問題を客体として取り出し,それをクライエントとセラピストが,一緒に眺めている,構図である。
問題の外在化も,こういうコンテクストの中で,物語を厚くする手段と位置づけられる。だから,外在化は,たとえば(ホワイトは),
①問題の定義を協議する
②問題の影響をマッピングする
③問題の影響を評価する
④評価の正当性を証明する
といった手順で,具体化していくが,このとき,通常不可とされる,「なぜ」も有効に使われる。
「なぜ」質問は,人々が人生において価値を置く事柄について理解,人生知識と生活技術,生き方についての重要な考え方に声を与え,それを更に展開する,
とマイケル・ホワイトは言う。そこに,常識や通念に塞がれた視界を開き,新しい,自分のストーリーを見つけるには不可欠な問いでもある。「なぜ」を不可とする通念自体が,セラピストが囚われている先入観に過ぎない(かもしれない)。
なぜそう考えるのですか,
なぜそれがよくないことなのでしょうか,
なぜを通して,クライエントが閉ざしていた価値観を表立たせることも可能なのである。
すべて,クライエントが,
自分の人生を取り戻す
ためであり,そこで,セラピストこそが問われている,
社会的常識にとらわれているのはセラピスト自身ではないか,
と。当たり前とするのではなく,
それを疑う目を,
もたなければ,クライエントの幅広い選択肢のあるストーリーを語りださせることはできない。それは,セラピスト自身の常識,社会通念を炙り出す作業ともなる。
今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
この記事へのコメント
コメントを書く
コチラをクリックしてください