読む
読むというのは,
読むと,数(よ)むとは語原が同じ,つまり,
数える,
とされる。お経をヨム,と同じなのだそうだ。ヨムは,中国語源では,
文書をヨム
意味を抜き出す,
言葉を眼で追う,
を指すらしい。しかし,どうも作品(多くは文学作品だが)を読む,というときの,
読む,
はちょっと異なるのではないか,という気がする。
吉本隆明の発言に,
文句なしにいい作品というのは、そこに表現されている心の動きや人間関係というのが、俺だけにしか分からない、と読者に思わせる作品です、この人の書く、こういうことは俺だけにしかわからない、と思わせたら、それは第一級の作家だと思います。
というのがある。例によって,ちょっと逆転した物言いたが,自分に読み取れたことを人は別に読む,という相対的なものの見方が出来なければ,こういう言い方はできない。
多くが,そこに自分を読み込むことで,自分にしかこの作品は分からない,という確信(誤解)をえる。それが,作品の良し悪しの根拠という言い方は,独自で面白い。それは,逆に言うと,作家の自己完結した世界に閉鎖されれば,多くは,跳ねのけられた感覚になるに違いない。
これが正しいかどうかは別として,作品を読むというのは,
作品の意味を読み解く,
のとは異なる。そういう読み方を文芸評論家はするかもしれないが,それは,身過ぎ世過ぎのためであって,作品を読む,という場合,僕は,三つしかない,と思っている。
第一は,作家の描いた世界に,丸々乗ってしまう。まあ,これだって,読者が作品に思い描いた世界と,作家がイメージして文字にしたものとは異なっているかもしれないが。
なぜなら,ひとつの言葉の意味は,辞書的には同じでも,その言葉見るのは,それぞれのパーソナルエピソードに拠っている。人生が同じでないように,言葉に思い描くものが同じなわけはない。
僕にとっては,藤沢周平の作品がそれかもしれない。ただその世界に入り込んで,楽しんでいる。いまは,漫画の『キングダム』が,あるいは,そういう作品かもしれない。
第二は,言葉を自分の世界に置き換えて,読む。作家の描く世界を,自分流にイメージした世界として読む。そのとき,そのイメージは,明らかに,個人的なものだ。
クオリアレベルで言うと,同じ赤といっても,見ている赤の内実は違っている。にもかかわらず,「アカ」という言葉だ代替する。だから,「赤」に,おのれの描く朱を見ることで,その瞬間から,その言葉の拓く世界は,自分の世界に変わっている,と言ってもいい。
僕にとっては,これは,石原吉郎の詩だ。
第三は,作家の言葉の描く世界と,自分がその言葉に見る世界とを,キャッチボールしつつ,両者の向こうに,というか,ベン図の円の重なった部分,といったほうがいいか,そこに,独自の読んだ世界を見る。
あるいは,その作品に影響を受けて,自分の世界を築こうとする。それが,別の作品になるのか,商売になるのか,自分の生き方になるのかは,ともかく,作品に強い影響を受ける,というのは,そこから,自分が新たなアクションを起こそうとする,というのにつながる。それが,作品の完結した世界とはまったく別のものになるにしても,読み手にとっては,作家の世界とのキャッチボールの結果なのだ。
もちろん,このほかに,正確に,作家の発するメッセージを意味として受け取るという読み方もある。しかし,それでは受身だと僕は思っている。いい作品ほど,その影響と格闘することになる。
これは,僕にとっては,古井由吉であり,個別の作品で言うと,ドス・パソス『USA』であり, マリオ・バルガス=リョサ『世界終末戦争』だ。
この作家とこの作品は,僕の中でいつも格闘が続いている。それは,方法であり,世界観であり,描き出す世界像である。
いずれの読みが正しいかどうかは,ぼくにはわからない。しかし,世の中の大作,傑作については,僕はあまり関心がない。流行していようと,世界的作家であろうと,僕に刺激としてのインパクトと,強烈な存在感を示さないものは,僕にとっては,傑作でも,名作でもない。
その点では,吉本の言うことには,賛成できない。
結局読む,とは,僕にとって,僕個人と,
作家の作品との格闘,
に他ならない。作家とではないが,結果として作家個人と対峙していることになる。そして,いつも,完膚なきまでに負け続けている。
今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
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