2014年05月15日
アイデア
もう二十年以上,1日1アイデアを続けている。実に下らない思いつきばかりだが,そのくだらなさが,なにごとも当たり前にしない目につながると信じている。
数年前までは,1日2アイデアであったが,とうとう音をあげて,1日1アイデアに,ハードルを下げた。当初は,忸怩たるものがあったが,いまは,1日1アイデアでも,悪戦苦闘している。
アイデアについては何回か書いた,
http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163006.html
http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163520.html
が,基本的には,アイデアづくりの構造は,
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/prod02100.htm
と考えている。基本的には,何度も触れたことがあるが,
本来バラバラで異質なものを意味あるように結びつける,
のを創造性と言った川喜多二郎の言は正しい。しかし,もっと踏み込むと,
どんなものでもつなげることで新しい意味づけをしさえすればいい,
あるいは,
新しい意味が見つけられるなら何と何を結びつけてもいい,
と読み替えてもいい。となると,
結びつけ,
に意味があるのではなく,
意味づけ,
の方にウエイトがかかる。本来バラバラの物を意味あるようにつなげること,と。これは,
情報の編集,
である。それは,ひらめきの,脳の反応に似ている。ひらめいた瞬間,
脳の広範囲が活性化する,
つまり,いつもとは別のものとつながり,意味に気づく。言い換えると,
いろんなものとリンクさせる力
である。これを僕は,脳の筋力と呼ぶ。
脚力も膂力も腕力も,日々鍛えなくてはすぐに衰えていく。それと同じで,
脳の筋力,
も,日々鍛えなくては,ありきたりの,当たり前に見てしまう。アイデアは,
当たり前と見ない,
ことからしか始まらない。例えば,コンビニが込む。当たり前か?切符の販売機に並ぶ。当たり前か?天気が急変する。当たり前か?アホな政治家が,おのれの思想信条を国是にしようとしている。当たり前か?名字が選べない。当たり前か?
当たり前とすれば,何も問題視しないということだ。いまのまま甘受するということだ。
それは,何も考えないのと同じだ。アイデアは,いまの当たり前をどう崩すか,どう変えるか,どうしたら自分たちのためになるようにするか,を考えることだ。
その意味で,筋力を鍛えることは,生き残る力を,蓄えることだ。アウシュビッツで生き残ったのは,
未来に自分がいる意味を見つけた人たちだ,
フランクルは言う。
(ニーチェの格言)「なぜ生きるかを知っている者は,どのように生きることにも耐える」
したがって被収容者には,彼らがいきる「なぜ」を,生きる目的を,ことあるこどに意識させ,現在のありようの悲惨な「どのように」に,つまり収容所生活のおぞましさに精神的に耐え,抵抗できるようにしてやらなければならない。
生きることへの期待から,生きていることが自分たちに期待し,何をなさせようとしているかへ,180℃変えさせた,そこに自分の未来を見つけること,それが生きている意味だと,フランクルは言っているのだが,
自分が生きていることに意味を見つけたものにとって,どう生きるかは,どんな苦難の中でもどうやって生き延びるかを考えることでもあった。それが,
創造性,
に他ならない。
それは,いまのありようを,甘受せず,何としても生き残ろうとする,執念だ,
それを支えるのが,アイデアに他ならない。それは,人を出し抜くことでも,人を陥れることでもない。
フランクルの『夜と霧』で読み取った,勝手な教訓は,
創造性,
こそが生き残る鍵だということだ。どうすれば,
生き延びる創意と工夫を考え出すか,
それは,創造性というか,アイデアの,原基だと,つくづく思う。
発想力については,
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/view06.htm
かつてこう考えた。基本は今も変わらない。
参考文献;
V・E・フランクル『夜と霧 新版』(みすず書房)
今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
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