選択


選択している,

のと,

選択させられている,

のとどう違うか。選択しているつもりで,選択させられていることはないか,そして,そのことに無自覚であるということは。

吉本隆明は,こう言っていたのを,ちらりと見て,触発されたものがある。

人間の意志はなるほど,選択する自由をもっている。選択のなかに,自由の意識がよみがえるのを感ずることができる。だが,この自由な選択にかけられた人間の意志も,人間と人間との関係が強いる絶対性のまえでは,相対的なものにすぎない。

意思したつもりだが,結果として,関係性で引きずられている,これを文脈とか秩序とかと置き換えると,一般化されすぎ,どろどろした現実感が消えてしまう。

「関係が強いる絶対性」というのが,確か,『マチュウ書私論』のモチーフだと記憶している。

上記は,

人間は,狡猾な秩序をぬってあるきながら,革命思想を信じることもできるし,貧困と不合理な立法をまもることを強いられながら,革命思想を嫌悪することも出来る。自由な意志は選択するからだ。しかし,人間の状況を決定するのは関係の絶対性だけである。ぼくたちは,この矛盾を断ちきろうとするときだけは,じぶんの発想の底をえぐり出してみる。そのとき,ぼくたちの孤独がある。孤独が自問する。革命とは何か。もし人間における矛盾を断ち切れないならばだ。
マチウの作者は,その発想を秩序からの重圧と,血で血をあらったユダヤ教との相剋からつかんできたにちがいない。

とも語られる。さらに,

秩序にたいする反逆,それへの加担というものを,倫理に結びつけ得るのは,ただ関係の絶対性という視点を導入することによってのみ可能である,

と。倫理,別の言い方をすると,

ひととしてどうあるべきか,

は,そのおのれの置かれている文脈抜きでは,他人事でしかない。

関係性の強いる絶対性とは,客観的にあるのではなく,自分の中に,意識的無意識的に,絶対性として強いる者を感じる,

という意味だとすると,吉本の言っているより,もっと広げている(和らげている)かもしれないが,

人は知らず,おのれにとっては,

と,言うとき,

人間と人間との関係が強いる絶対的な情況,

というもの(このとき,人も状況も個別,固有化されているが)から,思想も,発想も,意識的か無意識的かは別に,逃げられない。それを土着とか,アイデンティティと言い換えると,やっぱり,少しきれいごとになる。

父親・母親との関係,

上司との関係,

影響力のある先達との関係,

地縁・血縁,

自分の置かれている立場,

生い立ち,

等々,「強いる」と受ける関係にはさまざまある。

本当の意味とは別のところで,僕の中で,「関係性の強いる絶対性」という表現で,動いたのは,結局,

関係の強いるものからは逃げられない,

ということなのか,

関係の強いるものを意識することで,選択肢が広がる,

ということなのか,

関係の強いるものに無自覚で,選択している,

ということなのか,

関係の強いるものによって,選択肢は強いられている,

ということなのか,だ。それもまた選択なのではないか。

そのとき,

人は,関係の結節点そのもの,

という言い方もあるし,

人間は社会的諸関係のアンサンブルである,

という言い方も,もっと主体的な意味に変わる。その見方が,

自分の取りうる立場を選択させる,

と言い換えてもいい。その瞬間,関係の絶対性は,相対化される気がする。

中沢新一が,

知識はかならず身体性をとおさないと本物にならない,というのは,ぼくの基本的な考え方です,

と言っていたことを,少し(でもないが)膨らませるなら,

そういう,自分の結節点が無意識に強いるものとの対決抜きには,

いかに生きるべきか,

は,自分のものにならない。

とは,ちょっと格好つけすぎか。




今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm

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