2014年05月31日


友人の死の知らせを受けた。

この友人については,

http://ppnetwork.seesaa.net/archives/20121110-1.html

http://ppnetwork.seesaa.net/archives/20121220-1.html

で書いた。

すでに,ずいぶん前に,死を覚悟していたし,その別れの旅も,三人で,二度することができたこともあって,意外感より,とうとうきたか,という思いがあった。昨年,僕が入院する前に,電話して彼の声を聞いたのが最後になった。

訃報

ばかりの年代になったのだ,と思う。

いずれ行く道だもの,

は誰の台詞だったか。

死生命有
富貴天に在り(『論語』)

という。ここでは,「生き死にの定め」「天の与えた運命」の二つ天が並列されている。

一つは,天の与えた使命,

五十にして天命を知る

の天命である。いまひとつは,天寿と言う場合のように,寿命である。

すべては天命である。寿,つまり,



とは,「老」部(老の省略形)+(壽の土を除いたつくり)でひさしいの意とあり,

年老いるまで生きる,

の意味という。どこまでを年老いた,と言えるかは,人によって違う。彼の思いを聞いたことはない。が,

不慮の死を非命というから,でなければ,天寿である。

山頭火の,

分け入つても分け入つても青い山

には,

人間到る所青山あり,

の青山と考えると(あるいは蘇武のという,是処青山可埋骨のほうがよりストレートか),人生そのものを指していなくもない。別に覚悟の問題とは思わない。生きるということ自体が,背負っているものだ,と思う。前に,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/394682754.html

で書いたことがあるが,

生かされて(いま,ここに)ある,

(のが天命だ)という思いが僕にはある。まだ少し,彼より生かされて,ある。

それは僕の理解すべきことではなく,ただ受け入れるべきことだ。

ただ,肉親のときは,その不在を了解するのに,ずいぶん時間がかかった。数年経たいまも,まだその不在感になれない。

かの友人の場合,確かに,すでに,別れを告げられていたために,不在を当たり前と思うのかと思ったが,そうではない。

つかず離れず,長い年月,遠く離れて,生きてきていた分,というか,何年かに一度,昨日別れたように,再会してきただけに,

不在,

というよりは,

いまは(ここに)いない,

という意識の方が強い。かえって,死が遠くに感じられる。

何しているかな,

と,つい思いを遣りかねない,そんな感じである。

すでに亡くなっているのに,知らせをもらった日までの時間がそうだったように,その離席中のような感覚は,ずっとこれからもつづく。あるいは,年々,強まっていくのかもしれない。だから,

そろそろ会うか,

と。彼は,僕の中で,まだ生きている。

これが逆でも,そうなのかもしれない。

自分の死については,

http://ppnetwork.seesaa.net/archives/20121205-1.html

し残したことについては,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/392762774.html

に書いた。

少し,彼より長生きする分,あと何年後か,あちらで再会した時,誇れるようなことをし終えておきたいと,ちょっと思っている。

遅いじゃないか,いままで何してたんだ,

と言わせぬように。

残った二人で,近々,しんみり彼のことを語ることになりそうだ。たぶん,彼が,

そこにはいないが,あたかも生きているように,

彼について語るのではないか。いつも,二人で彼を話題にしていたときのように。




今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm

ラベル: 天命 天寿 死生
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posted by Toshi at 04:54| Comment(0) | | 更新情報をチェックする
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