2014年06月02日

手抜き


釘原直樹『人はなぜ集団になると怠けるのか』を読む。

副題に,「社会的手抜き」の心理学とある。要は,手抜き,著者はこう定義する。

個人が単独で作業を行った場合にくらべて,集団で作業を行う場合のほうが一人当たりの努力の量(動機づけ)が低下する現象を社会的手抜きという。

この例に,フランスのリンゲルマンの行った実験結果を上げ,一人の力を100%とした場合,集団作業時の一人あたりの力の量は,

2人の場合93%,3人85%,4人77%,5人70%,6人63%,7人56%,8人49%,

となったという。それは,

集団の中では責任感が希薄になる,

のが一因と,著者は推測し,そういう例を,見て見ぬふりから,カンニング,ブレインストーミング,スポーツの八百長,集団浅慮まで,幅広く例を挙げつつ紹介していく。

その原因として,

外的条件(環境要因)としては,

評価可能性 個々人の集団への貢献度がきちんと評価できるかどうか
努力の不要性 自分の努力が集団全体にほとんど影響せず,しかも他の人と同等の報酬が得られる場合
手抜きの同調 他の人が努力していなければ,自分だけ努力するきになれない。強い仲間意識や暗黙の集団規範

内的条件(心理的・生理的要因)としては,

緊張感の低下
注意の拡散

を挙げた。結果として内的条件は,外的条件の結果として発生するので,

どのような条件,とくに外的条件がどのように連結して社会的手抜きにつながるか,

の切り口から,

①期待 
個人の努力が個人のパフォーマンス向上につながるという予期。勉強しても成績が上がることが予期できなければ,期待は低くなり,自己効力感(自分の努力と成果が結びつく可能性が高いと認識している感覚)も低い。
②道具性 
パフォーマンスが何らかの報酬や罰に結びつくと思っている度合(信念)。業績が挙がれば給与が増えたり,賞賛されたり,名誉を得ることができる程度が強ければ,「道具性」が高いことになる。
③報酬(価値)
その人の主観的価値として,仕事や報酬に意味がある

の3要素が個人の動機づけとして高い,とまとめた。

では,どんな人が手抜きするのか。

評価可能性が低く,自分のパフォーマンス(業績)が必ずしも自分の報酬とはならない場合や,自分が努力しても集団のパフォーマンスの向上にはほとんど役に立たない(道具性が低い)場合には社会的手抜きが生じやすい。そのために評価可能性や道具性の認識に敏感なパーソナリティ(気質,正確,能力を含めたもの)の持ち主は社会的手抜きをしやすいと考えられる。

そこで,パーソナリティを,

外交性
情緒安定性
勤勉性
協調性
開放性

の5因子の組み合わせでパーソナリティを測ると,

強調性と勤勉性は手抜きと,負の関係,という実験があるようである。そのほかに,

達成動機(個人的な目標や基準を達成しようと努力する傾向)の高い場合,(中略)どのような時にも手抜きしなかった,

という。それはわかる気がするが,しかし,その動機と,や(らされ)ることのギャップが大きい場合はどうなのかと,ちょっと疑問が残る。

結論として,パーソナリティと社会的関係を見た場合,その人の認知として,

評価可能性(自分の努力が公けに認められる),
努力の不要性(自分の努力が集団全体に役に立つ)
道具性(自分の努力や報酬や罰と直接結びつく),
報酬価値(仕事事態や報酬に価値がある),

すべてに正の反応なのは,

勤勉性

達成動機

であるようだ。突っ込んだ言い方をすると,外的な条件がどうであろうと,自分の,

価値基準が明確である,

と手抜きがしにくい,ということになる。すべてのパーソナリティに効くのは,

評価可能性,

のようである。手抜きを左右する,重要な要因,ということになる。

気になるのは,

腐ったリンゴ効果

である。

自分の利益を優先して集団の利益をないがしろにするような利己的振る舞いをする者が集団の中にいた場合,

その利己的な人一人を認識していないと非協力は50%
その利己的な人一人を認識していると非協力は80%

と,たった一人の林檎でも,集団全体を腐らせる,と。

さて,では社会的手抜きにどう対応するのか,ありきたりだが,

目標の明確化,
正確なフィードバック
個人の役割の明確化

ということが挙げられていた。結局,

個々人のその仕事への意味づけ,

をはっきりさせる,という意味では,やる気をどう高めるか,ということと軌を一にする話に落ち着く。

しかし読み終わって,手抜きを,

本来やれる(はずの)こと,やるべきことをサボること,

と言い換えると,難しいのは,それが,そのひとの「本来できるレベル」と,どう決めるのか,その日その日で,その「本来」というのは変わるのに,ロボットのような機械的な対応を求めていいのだろうか,という疑問だ。

ある組織で,組織改革があった時,その当人が,これは,

スーパーマンを求めている,

とぽつりと言った。孔子ではないが,

人に備わらんことをもとむるなられ,

である。僕は社会心理学者が書いた本を読んだとき,いつも現実とは違う実験結果で現実を推し量ろうとしている,という気がしてならない。今回も,ずっと違和感をぬぐえなかった。

人は,一人一人違う,どの立場から,それを見るかによっても変わる。そもそも手抜きか手抜きでないかは,なんではかるのだろう。

その一瞬,手抜きしているように見えて,その手抜きが,次のパフォーマンスに寄与する,ということは,ありうる。だから,どの視点から見ているかで変わる,と思うのだ。

それと,集団になっている時と,ひとりでやっている時と,出す力が違うのは当たり前ではないかという思いがある。その余力が,次へのステップというか,バネになる。そこで次の手を考える。余力なく,全力でやっていて,組織が回転するとは思えない。同じ作業を永遠に繰り返していては,集団というか,組織自体が生き残れないのだから。

その意味でタイトル『人はなぜ集団になると怠けるのか』は,逆に,人は集団の中にいると怠けるもの,という著者側の先入観でものを見ているのではないか,そしてそれにふさわしい結果が出るように実験している,としか見えないところがある感じが拭えない。まあ,著者の勘ぐり,と言えば言いすぎか。しかし著者の想定している程度の仕事観,労働観では,今日の組織は生き残れない気がしてならない。

参考文献;
釘原直樹『人はなぜ集団になると怠けるのか』(中公新書)




今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
posted by Toshi at 05:22| Comment(0) | 書評 | 更新情報をチェックする
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