遊び
遊びという言葉がふいに浮かび,『梁塵秘抄』の有名な,
遊びをせんとや生れけむ,戯れせんとや生れけん,遊ぶ子供の声きけば,我が身さえこそ動がるれ
が続いて浮き上がってきた。しかし,遊び,というのは,
遊び,遊興,なぐさみ,
の他に,
仕事や勉強の合間,
気持ちのゆとり,余裕,
機械の部品と部品の余裕,
といった意味がある。では,「遊」という字はどうか,というと,上記と重なるが,それ以外に,
楽しむ(遊学,遊山),
自説を説きまわる(遊説),
まじわり,よしみ(交遊),
ひまびと,常業なきもの(遊食,遊民),
一定の所属なきもの(遊軍,遊魂),
というのがある。日常や,定形,ルーティンから外れている,という意味がちょっと面白い。もともと遊びは,自分の文脈から切れる,
時間,
場所,
人,
を指しているように思える。
遊子,
遊侠,
遊女,
遊里,
はそんなイメージで,まさに,日常から,
遊離,
することを言っている。その,
解き放たれた,
感覚がないと,埋没して,モノが見えないからに違いない。
非日常,
とはそんな感覚なのではないか。別の言い方をすると,ハレかもしれないが,それでは,裃が付きすぎる。
祭り
が近い。まつり,には,それ以外に,
祀り,
祠り,
があるが,ともに,定まったまつりで,祭は,
いつに限らずものを供えてまつる,
とある。まあ,ちょっとその気になったらまつる,というのは,いっとき,日常から離れる。ちょっと飛躍か?
ただ,仕事でも生活でも,ルーティン化することで,流せる。しかしそのまま流されず,そこから抜けて出る自分がいる。その違った自分の目で,改めて日常を見る。それを余裕というなら,そのことで,日常の自分の仕事や人との距離感が見える。
間合,
と呼んでいい。それが,
遊び,
なのではないか。遊びのない,密着した,というかがちがちのハンドルでは,操作しづらいに決まっている。生き方も,そういうのりしろが不可欠なのだと,つくづく思う。
子曰く,これを知る者はこれを好む者に如かず,これを好む者はこれを楽しむ者に如かず,
その通りだが…,なかなか。
参考文献;
貝塚茂樹訳注『論語』(中公文庫)
今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
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