甲斐



「かい」とは何だろう。

甲斐は,

行動の結果として現れるしるし。努力した効果,
期待できるだけの値うち,

とある。

甲斐は,

甲斐,
詮,
効,

を当てる。しかし,

甲斐がない,

詮がない,

効(目)がない,

では微妙に違う。

詮は,「はかり」の意味で,

物事の道理を明らかにとく,
物事の道理が整然と備わっている,
言葉や物事をきれいにそろえて,よいもの,正しいものを選びとる,
煎じ詰める,結局,
詳しく調べる,
なすべき方法,

と,ある。しかし,

甲斐性,
生き甲斐,
やり甲斐
年甲斐,
甲斐がある,
甲斐甲斐しい,

という使い方から見ると,「甲斐」には,

ただの効き目や効果やその測定だけではなく,

値打ちの有無,

のニュアンスがあるような気がする。語源的には,

かう(支う)の連用形。大工の「支う(かう)」では,「こんな細い棒ではカイ(支え)がないのと一緒」

という。とっさに浮かぶのは,突っ支い棒。そこでいう,「支い」と同じではないか,と思う。

かう(替う)の名詞化という説もあるが,そこからも,代価,代償,値打ちの意味が,確かに出てくる。

生きる(た)値打ち
やる代償

と解釈は可能になるようだ。

しかし,値打ちには,自分にとっての意味という部分と,ひと様から見ての意味の部分と二つある。甲斐というとき,その両方のニュアンスがある。

自分から見ると,値打ちだが,
相手から見ると,手ごたえ,張り合い,になる。

いや,

相手からの手ごたえ,張り合いが,
自分の値打ちを確かめるものになる,

とも言える。自分の甲斐が,相手に影響し,その影響が自分に反照する。結局,

甲斐,

は自己完結するのではなく,人との関係のなかで,影響し,反照する中で,強められるのかもしれない。

自分の自己対話の中では,甲斐は,張り合いのない,甲斐のないものなのかもしれない。それと,

行動の結果として現れるしるし,

という言い方からすると,一瞬のそれを測っているのではなく,積み重ねた結果を言っているようでもある。

そこにある,それ自体に,それまで生きてきた歳月の重みがあるのか,

そこで,このまま,生きていく値打ちがあるのか,

と。その歳月が,

馬齢,

なるかどうかは,自分の甲斐次第,ということになる。いや,そういう,照らし,照らし返される関係そのものの積み重ねの中で,

年甲斐

も生まれるのではないか。


参考文献;
北山修『意味としての心』(みすず書房)
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)




今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm

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