消化


心の平安,と言うと大袈裟だが,僕にとって,心のバランスをどうとるか,と言うと,たとえば,外との関係で言うと,

①外に対し,バリアを張って外部刺激をはねつける,

②外に対し,バリアを張るが,取捨選択して,濾過する,

③別に何でも構わず浸透させ,混ぜ合わせる,

極端に言うと,こんな感じか。

かつては,まあ,バリアを張る,というか,閉じこもる,というのに近かった。自己完結したがるというか,そういう時間というか,そういう場所が必要だった。いまでもそれは,基本的に変わらないが,

別にいいじゃないか,

というほど大胆にはなれないが,

浸透させてみて,かき回し,自分でひねくり回してしまう,

というのが近いかもしれない。こちらの方が,質が悪いのかもしれない。

自分流儀に直してしまう。換骨奪胎,というと聞こえはいいが,真似という痕跡を残さない,というのに近い。そこに,自恃がある。

しかし,それは主体的になっている場合で,受け身に回ると,全くそれが出来なくなる。

自分が主体的にいろんな刺激を取りに行く,例えば,

先達の考え方,方法,

競合者の考え方,方法,

学びに行くときは,まだそれを受け止めるキャパかあるが,そうでないときは,押し込まれたり,波風立てられると,その状態をそのまま受け入れられるほどに器用でもないし,器量も小さいので,どうしても,

それを自分の中で整理統合する,

そのための時間が必要なことが多かった。いまも,そういう消化の期間は,必要でないことはないのだが,

その場で,前捌き,

ができる,面の皮が厚くなった。自分の世界と,人の世界との違いと共通点を,

そんなにタイムラグなく,

整理できる,

あるいは,

融合したり,分離したり,

出来る。なんだろう,場数を踏んだせいなのかもしれない。しかし,その本当の影響は,

後になって効いてくる,

ということが多い。特に,そこで反発や異論を感じたものほど,

自分の考えとすり合わせ,自分の世界にきちんと位置づけるためには,時間がかかるような気がする。これだけは,やはり変わらない。

その異質さというか,違和感が大きいほど,無理やり,それを呑みこまされる感じがあり,消化するのに時間がかかるということだ,しかし,その異質さを自分の中に,きちんと位置づけ直せた時,

自分に見える世界が,結構変わる,

そんな気がしている。

その意味で,結局思うのは,似た考えの人とだけ交わっていては,自分の変化というか,変身は起きず,その場合,皮下脂肪や内臓脂肪が増えるだけなのではないか,という気がする。

自分の考えの身の丈が大きくなるには,

棒を呑む

ように,本当に異質な考えを,何とか飲み下し,自家薬籠中のものにしていくという,消化の努力なしにはあり得ない,という気がしてならない。

いまは,自己完結は手放して,しかも前捌きで都合のいいものだけを濾過するのも,あまり得策ではない。むしろ,大いなる異質さ,違和感を,無理やり飲み込むことが,まだまだ必要だと,思っている。

それには,脳の消化機能を鍛えなくてはならない。




今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm

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