一貫性
どうも,
一貫性,
という言葉に弱い。始めから終わりまで一つのこと,あるいは考えを貫く,
一念岩をも通す,
というし,
虚仮の一心,
とも言う。あるいは,
匹夫も志を奪うべからざるなり,
と孔子の曰われるのも,その伝だろう。
しかし,たぶんまれだから,そういうのだろう。どうも,しかし,振り返ると,それほどの一貫性のある生き方ではない。たとえば,
人生とは,なにかを計画していている時に起こってしまう,別の出来事のことを言う,
とか,
結果が,最初の思惑通りにならなくても,…最後に意味を持つのは,結果ではなく,過ごしてしまった,かけがえのないその時間である,
というのに惹かれるのは,言い訳のにおいがするかもしれないが,そのときに身をゆだねる,ということの方に惹かれるせいかもしれない。
道草し,そこで一生過ごすかもしれない,
そのことが悪いことには思えない。よく童話であるのは,そういう道草してしまった兄弟姉妹を連れ戻す話が多いが,それは,日常側から見ているからではないのか。浦島太郎は,龍宮から戻ってきたが,それがよかったかどうか。
泉鏡花の『高野聖』の若い修行僧の宗朝が,山へ引き返さなかったことが,よかったかどうかは,誰にもわからない。山に戻り,その女の魔力で馬の姿に変えられ,猿に変えられても,その方がよかったのかもしれない。
小説では,
朝,女の家を発ち,里へ向いながらも美しい女のことが忘れられず,僧侶の身を捨て女と共に暮らすことを考え,引き返そうとする。そこへ馬を売った帰りの男と出くわし,女の秘密を聞かされる。男が売ってきた昨日の馬は,女の魔力で馬の姿に変えられた富山の薬売りだった。女には男たちを,息を吹きかけ獣の姿に変える妖力があるという。宗朝はそれを聞くと,踵を返しあわてて里へ駆け下りていった,
のだが,ここが,寄り道するかどうかの瀬戸際ということになる。
あくまでまっとうな日常をよしとするからこそ,僧の話に納得できるが,
もったいない,
あたら面白い人生を捨てた,
と思う人だっていなくはない。
安部公房の『砂の女』で,(記憶のままに書くので,思い違いかもしれないが),
砂の穴から必死で逃げようとしていたはずの男が,あるとき,砂に桶を沈めておくと,水がしみ込んでくるのを発見して,砂の中では,水の確保が最大の課題だったから,そのことをまず,自分を砂の穴に閉じ込めたはずの,当の女に伝えたい,
と思ったシーンがあった。そのとき,もう数十年も前のことだが,
ああ,日常に捉えられるというのはこういう感覚なんだ,
と感じたことを鮮やかに覚えている。それは,悪い感覚で気はなく,職場で,ある問題の解決を思い浮かべたとき,まず最初に伝えたいと思うのは,職場の仲間に,だというのと似た感覚だ。
もちろん,他方で,
死して後已む,
という思いがなくもないし,
この世に偶然はない。人は偶然を必然に変える力を持っている,
という言葉に惹かれないわけではない。だが,僕は,
寄り道,
回り道,
した人の方が好きだし,回り道したまま,戻ってこない人が,もっと好きだ。自分には,できない,何かをそこに感じるからだろう。
ひとり思い当たる人がいる。まさに,彼は,
遊子
である。
参考文献;
龍村仁『ガイアシンフォニー第三番』
今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
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